この他に蔵骨器として多いのは凝灰岩をくりぬいて作った石櫃で、市域内にも櫟坂古墓・鍋塚古墓・廿山古墓などの例がある。隣接する羽曳野市にはもっと多くの資料が発見されていて、市南部の西浦では日吉神社境内地に三基の凝灰岩製蔵骨器があり、蔵之内からも二基の同様な遺品が出土するなど、石川谷の縁辺に広く分布している。この種蔵骨器に用いられた凝灰岩の質は、ことごとく二上山西麓の穴虫峠付近から鹿谷寺にかけてのドンズルボー層の露頭に見るものと共通しているので、石材産地に近接していることが、石製蔵骨器の流行した理由の一つといえるであろう。第五章第一節ですでに触れたように、二上山産の凝灰岩のうち白石に属する石材は、六世紀以降石棺材としてさかんに切り出された。とくに八世紀になるとこれまでの石棺材としての用途に代わって、仏教伽藍の建物基壇の石組み用として多量に供給された。したがって同種の石材が火葬骨を埋納するために利用されるに至ったのは、石切場の経営においても、加工の容易さの点からも当然のことであったであろう。ただ凝灰岩石材はその後鎌倉時代に花崗岩の利用が普及しはじめるまで、奈良時代から平安時代を通じて使われ続けたから、凝灰岩製蔵骨器であっても墓誌やその他の伴出遺物から年代を決定できなければ、必ずしもすべてが奈良時代に属するということができない。たとえば櫟坂古墓の場合、凝灰岩製蔵骨器を使用していても、その形状の簡略さからみてむしろ平安時代に位置づけた方が妥当と考えられる。