和同銭を副葬した墳墓

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こうした中で、とくに取り上げておきたいのは甲田南古墓から伴出した和同開珎の銅銭である。この遺跡は一九八〇年二月に市教育委員会により、甲田七〇番地に都市下水路を設置する工事に先立つ緊急調査が行なわれた際に発見された。この地点は近鉄川西駅の東南方三〇〇メートルにあたり、たまたま府道三〇九号線開設に先立つ大阪府教育委員会の調査で弥生中期から後期にかけての集落遺跡が発見された地域の中央に位置している。府・市両教育委員会の正式の報告書が発表されていないので、本文中で簡単に触れておくことにしよう。

 調査以前この付近一帯は石川左岸の低い河岸段丘の一つで、河床面との比高差はわずか六メートル程度にすぎない水田であった。水田面から約三〇メートルあまりで茶褐色の砂礫層からなる堅硬な地山面に達したが、その直上に土師質甕が置かれていたという。周辺は弥生式土器片とサヌカイト片を含む茶褐色粘質土で、明らかに弥生時代の堆積層を穿って土師器を埋納したとみられ、須恵器片の混入も認められた(450)。

450 甲田南古墓の土師質蔵骨器と和同銭(市教委写真)

 土師器甕は上方が撹乱されていた結果、胴部の下半のみが残り、その底部に「和同開珎をともなった土師杯が検出された」とある。調査時の写真を見ると銅銭は土器内部の底面に接していて、土師器とともに埋納されたことが確実で、市教委の見解は「埋葬施設が存在したと考えられる」という。この点について焼骨その他は存在しなかったようである。出土後資料を一見したところ、銅銭は腐蝕が著しいものの、和同開珎の文字の一部分が認められるので、銭名について問題はない。他に二例の土師器甕の埋納もあり、おそらく火葬骨を納めた埋葬施設と判断してよいとみられる。ただしこの埋納時期については和同銭の存在から直ちに奈良時代とする考えと、土師器の使用とその型式から平安時代に下げる見解とがあり、前述した火葬墓における土器の使用例からみて、後者の時期を採った方が妥当かと推測するが、この点に関しては正式の報告の結論にまちたい。