このような周辺地域の遺跡と比較してみても、本市域内出土の古墓の中に顕著な構造ないし副葬品をもつ例がなく、被葬者を裏づける手がかりも欠いている。年代的に見ても二、三の奈良時代に属するかと考えられる例を除くと、他は平安時代頃に営まれたと解釈すべき要素が強い。しかし現在までに知られている一〇例の古墓の分布が、市域内の特定の地域に偏ることなく、石川流域をはさんで東西両丘陵地帯に認められ、しかも石川の上流域から中流域にかけて広く存在することに、一つの重要な意義を認めるべきであろう。
すなわちこれらの分布地域は、第一節で述べたように分布調査を通じて遺物の散布から、集落が古く成立したと推測した地域とよく一致し、火葬墳墓の多くが集落となんらかの関係をもって営まれたと見なければならないからである。このことは律令体制下における集落の成員の中に、仏教に帰依した僧侶らの人びとと、貴族の風に習う階層の人びとが含まれていた事実を裏づけるものであろう。奈良・平安時代といえばすでに文献資料も多く、考古資料の果たす役割りはその一半にすぎないとはいえ、文献の上に欠落した地域社会の実態を明らかにする面では、まだまだ存在価値を有する点で、両者は重要な相互補完の関係に立つものといえよう。しかも住居址の調査を通じて集落を復原しようとする考古学の分野が重視されるようになったのは、この一〇年間のことにすぎず、今後の成果に期待すべき課題があまりにも多い。
石川谷の中流域を中心として広がる本市域内で、農耕生産を基調として成立した主要な集落は、おそらく古墳時代後期から奈良・平安時代にかけて定着したものであろう。もちろん、その中には古く弥生時代の定住ムラから発展した集落も含まれているとしなければならないが、一方では先進的な文化地域から来住した渡来系の集団も、この地に分散して居を定めた段階があったに違いない。その後の発展を、遺跡・遺物の上から具体的にたどることも、やがて歴史考古学の研究対象となると考えられる。いわば我われ庶民の歴史は、まさにこの時点から始まるわけである。