丘陵中の火葬墳墓

573 ~ 573

団地造成前の一九五七年、高辺台三丁目の高辺台小学校の西に隣接する17号棟の地点から出土したもので、この付近の小字を以前は櫟坂と称していた。蓋、身からなる凝灰岩製の蔵骨器に納めた火葬墳墓の遺跡である。

 住宅公団による金剛団地の造成によって以前の地形がすっかり変わり、現在では府道千早森屋狭山線から南側に六〇メートル離れた緩傾斜の住宅地となってしまったので、旧地形を少し説明しておくことにしよう。造成着手前にはこの付近は羽曳野丘陵の中に含まれていて、北西から南東方向に並列して走る丘陵支脈と、その間に細長く入り込んだ谷とが交錯する複雑な地形をなしていた。遺跡のすぐ南側には当時加太と廿山を結ぶ府道の旧千早森屋狭山線が尾根上を通じていた。遺跡はこの支脈がつながって形成した標高一二三メートルの丘の南斜面に位置し、東西両側は比高差三〇メートルの谷があった。