遺跡が発見されたのは一九五七年七月の中旬で、翌八月一九日に実地調査をした。この周囲一帯には松を主とした雑木林が広がり、造成後の今日では想像することもできないような自然の中にあった。日差は初秋の気配をわずかにただよわせていたとはいえ、まだまだ草いきれも烈しく、蝉の声があたりの空気をふるわせていた。調査当時、すでに蔵骨器は掘り出されていて、身はそのままの位置にあったが、蓋は動いていた。材石は二上山産の松香石と称する乳白色を呈する軟質の凝灰岩であった。土質の状況について、身の周囲は直径一メートルほどの円形の範囲に地山を浅く掘り凹めて埋め戻した形跡があり、赤色砂質の山土からなる地山上に身の底部を直接安置していた(考古七一―1・2・3)。
蔵骨器の身は、平面が縦三七センチ、横二四・五センチの長方形で、南北に長く横たえられ、長辺の方向は真北に対して二度西に偏している程度で、ほぼ正確に南北線上にあった。高さは南側で一六・五センチ、北側は底が上って一一センチしかないのは、材石の形状に左右されたためと考えられ、南半部が底面に至るまで比較的よく調整されているのに北半部の不整形なのが目立った。中央に長方形の浅い掘り込みがあって、上面は長さ二六センチ、幅一五センチ、底面は狭くなり長さ一九・五センチ、幅八センチで内壁は勾配を持っている(452)。
蓋は平面が正方形に近くて縦三八センチ、横三三センチの大きさで、一側が厚くて一二センチあるのに対し、他側は四センチしかなく、身と同様に半分だけしか調整されていない感を与えた。ことに蓋の下面には深さ二センチの浅い内刳りがあり、あたかも軒平瓦を象ったかのような印象であった。縦に亀裂が生じて二折しており、一角もまた欠失している。
身の内部には細片となった骨灰がごく少量認められた。これらの中には火熱に逢って石灰分が変質したものも含まれているので、火葬骨であることは疑いない。その他に蔵骨器の内外から全く遺物を発見しなかった。
年代を決定する資料をともなっていないので確実なことはいえないが、石材が二上山産の凝灰岩からなる点にもとづけば、奈良時代から平安時代にかけての石製蔵骨器に属するので、八~九世紀の年代を推定することができよう。