本遺跡は、富田林市の西方を南北に細長く横たわる羽曳野丘陵の中央部よりやや南方の東側斜面に位置する。府立河南高等学校の真西方向にあたる尾根頂上部付近の第一地点と、それより東方に延びた尾根と尾根との間に小さく突出した、通称「だいだい池」と呼ばれる第二地点とから成る。標高は九〇~一〇〇メートルで、比高差は三〇~四〇メートルを測る。
第一地点は、古くから土師器片の散布地として知られているが、その実体は十分把握されてはいない。
第二地点は、先年、富田林市在住の広實徹夫氏が「だいだい池」での遊泳中に水面下斜面土中より土師器三点、須恵器一点を採集したが、出土状況等は明らかでない。
採集された土師器は全て甕形土器である。口縁部は「く」字形に外反しその端部が若干内側に二~四ミリ立上り肩部は張らず胴部で張って丸底の底部となるものと、口縁部は「く」字形に外反するが端部は立上らず肩部は少し張って球形の底部に至るものに二分される。前者は器壁が薄く、器壁表面には肩部から胴部では縦位の刷毛目があり、胴部から底部に向かって横・斜め方向に刷毛目を施し、内面にも若干刷毛目が残っている。後者は厚手で、器壁表面には何らの装飾もないが肩部と底部付近に各々一条の凹帯が横走する。この凹帯は口縁部、胴部、底部の三部分を接合させて一個体を作る際に、接合部を押捺した結果生じたものであろう。三点ともに赤褐色を呈し、焼成堅緻で、胎土は粒子が細かく良質である(453・1~3)。
須恵器片は蓋の肩部から受け身に至る全体の三分の一程度の破片で、復原径一五・五センチを測る。頂部には宝珠形鈕が付着していたと考えられる。受け身部は若干内側に入り込んで端部を小さく外反させる。ロクロ痕は左廻りである。青灰色を呈するが内、外面に自然釉が付着する。胎土は緻密で、焼成は硬い(453・4)。
以上の特徴をもった四点の土器には骨灰等の遺存は認められなかったが、完形や出土地の状態からこれらは蔵骨容器と考えられ、須恵質蓋は恐らくは土師質甕形土器の一つに使用されていた可能性が高い。おそらく時期的には八世紀後半に比定されよう。
本例のような土師質蔵骨器は近畿地方にあっては発見・発掘例が数量的に少なく、分布上の広がりや性格あるいは須恵質蔵骨器との関係においても興味深い点があり、好資料を提出したと言える。(松井忠春)