この蔵骨器は、富田林市竜泉字硯石の山林で、昭和初年果樹園造成時に偶然出土したものである。出土地点は、嶽山(二八一・六メートル)から金胎寺山(二九六・四メートル)へ向かって、南西に派生した尾根の鞍部に近い東斜面で、わずかにテラス状になっている。蔵骨器は、口径一三センチ、胴径二五・三センチ、高さ二四センチを測る短頸壺と口径一四・八センチ、高さ四センチ、径三・五センチを測る擬宝珠様つまみを有する蓋とからなる須恵器有蓋短頸壺と須恵器甕二個とからなる(457)。
甕は、口径五七・六センチ、胴径六〇・八センチ、高さ四七・六センチを測る丸底のものを身とし、口径五八センチ、胴径六一センチ、高さ四六・七センチを測る丸底のものを蓋とするもので、たがいに口頸部で合わせた形を呈し、その中に短頸壺が納められていたと考えられる。
ところで、短頸壺は、マキアゲ、ミズビキ手法によって成形され、底部にはやや高い外反する高台を貼り付けている。体部外面中央から下方には、回転ヘラ削り調整がみられ、他は回転利用のナデ調整、内底面には、ナデ調整の痕がみられる。胎土は密で、少量の砂を含み、焼成良好堅緻、暗緑灰色を呈する。蓋はマキアゲ、ミズビキ成形で、上面には回転ヘラ削り調整がみられる。なお両者は被蓋した状態で焼成されたらしく、壺壷口縁部に残る蓋の痕と径が一致している。
甕は、二者ともに粘土紐を巻き上げていくマキアゲ成形で、内外面を叩き板によって調整されている。内面は同心円、外面は平行叩きがみられ、とくに後者は、木目を直角に切り刻んだ叩き板を利用しているため、格子状叩きとみまがう程である。
また壺底部、甕(身となっていた方)底部に、おのおの、焼成後、穿孔している。この孔が排水を目的としたものか、仮器とするためのものか判断しえないが、恐らくは前者の用に供されたものと考えられる。
ともあれ、偶然の発見によるものであるため、埋葬状況を明らかにするのは困難であるが、甕内に炭灰が、壺内に骨片がおのおの充満し、かつ周辺に炭灰が散布していたとの事である。
被葬者は、不明であるが、指呼の距離に存する龍泉寺に関係ある人物と考えるのが妥当であろう。時期は平安時代前半頃であろう。(中村浩)