石川と河内平野

583 ~ 584

富田林市はいうまでもなく河内国に属し、河内国を含む大阪平野は、我われが現在知っているそれとはおおいに違っていた。河内国の名称は、大和朝廷の所在地である奈良盆地からみて、淀川の内という漠然とした考えに起源をもつ。のちに河内国から摂津国や和泉国が分立するのである。

 富田林市を貫流する石川は、多くの中小河川を併合しつつ北流し、奈良盆地より流れてきた大和川と合流する。現在の大和川は、柏原市安堂付近で堺に向かって西流するが、これは江戸時代の宝永元年(一七〇四)の付替工事によるもので、以前の大和川は北西へ流れ、大阪城の北で旧淀川と合流していた。

 当時の地形を復原する説としては、標高二・五メートル以上を陸地とする藤岡謙二郎説がわかりやすい(『大和川』・458)。大阪城の位置する上町台地を突出部として、大阪湾は大きく東へ入り込み、入江をつくっていた。この入江が淀川や大和川の運ぶ土砂に埋められて、現在の地形ができあがった。

458 古代大阪の地形

 志紀郡道明寺村大字林(藤井寺市)の出身者で国学者の伴林光平(ともばやしみつひら)は、河内における地名や古墳の残りかたに注目しつぎのように説いている。

 河内南部の地名では、滝谷(富田林市)、恵我藻伏崗(えがのもふしのおか)・埴生(はにう)坂(羽曳野市)、狭山(狭山町)のように、谷・岡・坂・山などの字のつく例が多く、河内の北部・中部および摂津の南部には、渚(枚方市)、若江・渋川・草香江(東大阪市)、難波・浪速・堀江・御幣島(みてじま)・桑津・猪甘津(いかいのつ)・豊崎(大阪市)のように、水に関係のある浪・波・江・島・津・崎・渚の字のつく例が多く、対照的なあり方を示している。また古墳の分布を例にとると、南部には応神天皇陵(恵我藻伏崗陵)を中心とする古市古墳群があるのに対し、北部では低湿のため水害が多く、陵墓を造る便がなかった。河内の北部と中部では干拓と水害防禦、南部では池溝開発による灌漑用水の確保が、大和朝廷に課せられた急務であった。和爾池(富田林市)・狭山池(狭山町)など多くの池が南部に築かれたのは、水を保つことが困難で、旱魃に苦しめられたためであり、史籍にみえる河内国での旱損は南部に関係をもつことである(『河内国上古水土考』)。光平の説は河内国の地勢の特色をたくみに指摘しており、興味深い。