古代の河内平野の状況は、地理学上復原されるだけではない。『古事記』『日本書紀』(以下『記』・『書紀』・『紀』などと略称することがある)に初代の天皇とされる神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)(『記』には神倭伊波礼毘古命、いわゆる神武天皇。以下イワレヒコと略称することがある)の東征説話からも、その状況は推測できる。イワレヒコは日向の高千穂宮(宮崎県)を出発し、瀬戸内海を通り浪速(難波)に達した。
と記され(『記』)、イワレヒコの軍は引き返して血沼海(ちぬのうみ)(大阪湾)に浮んで南下し、五瀬命は男之水門(おのみなと)(泉南市男里宮付近)で崩じた。
五瀬命はイワレヒコの兄にあたる。盾(楯)津の地がどこにあたるかは明らかでない。昭和六年(一九三一)から三〇年まで、大阪府中河内郡に盾津村・盾津町があった。すなわち昭和六年四月一日、中河内郡東六郷村・西六郷村・北江村が合併して盾津村となり、同一八年一〇月一日、盾津村が盾津町となった。同二八年の町村合併促進法施行により、同三〇年一月一五日盾津町・英田(あかだ)村・玉川町・若江村・三野郷(みのごう)村が合併して市制をしき、河内市となり、そのあと河内市は同四二年二月一日枚岡市・布施市と合併して東大阪市となった。このようなしだいで、盾津村(町)の名に用いられた盾津の地名は新しいもので、昭和六年以前にさかのぼらない。井上正雄氏の『大阪府全志』(巻之四)は、中河内郡孔舎衙(くさか)村の項で盾津の地名を取り上げ、「草香津は草香江に沿ひし本地付近の古名なり、神武天皇の孔舎衙坂の戦に利あらず、乃ち軍を引きて還り、此の津に来り楯を植(た)て雄誥(おたけび)し給ひしかば、盾津の称其れより起り、訛して蓼津と呼ぶに至れりと」と記し、これは『書紀』によっているが、つづいて「古事記には盾津を楯津に作り、蓼津を日下之蓼津と為せり。然れども今は其の称なくして、只日下の地名を存するのみ」と述べ、盾津の地名は孔舎衙村に残っていない。
ところで、前に引用した『古事記』の記載に対応する『書紀』の文では、イワレヒコは、戊午の年(『書紀』は西暦紀元前六六三年にあてている)二月、「難波碕(なにはのみさき)に到るときに奔(はや)き潮(うしお)有りて太(はなは)だ急(はや)きに会ひぬ。因りて、名づけて浪速国とす。亦、浪花(なみはな)と曰ふ。今、難波と謂(い)ふは訛(よこなま)れるなり」と記され、つづいて三月に、「遡流而上(かわよりさかのぼ)りて、径(ただ)に河内国の草香邑の青雲の白肩之津に至ります」とある。四月にイワレヒコの軍は竜田(奈良県)に向かったが、道がけわしいため引き返して東方の膽(生)(い)駒山をこえ、中州(うちつくに)(大和地方)に入ろうとしたとき、長髄彦(ながすねひこ)が防ぎ、孔舎衙(くさえ)坂に戦い、五瀬命は流矢を手足にうけ負傷したため、イワレヒコは軍を引き返し、「草香津に至りて、盾を植(た)てて雄誥したまふ。因りて改めて其の津を号けて盾津と曰ふ。今、蓼津と云へるは訛(よこなま)れるなり」と記している。浪速(難波)から日下(草香・東大阪市日下町付近。生駒山の西麓)へ舟で航行し、停泊することができたのは、当時難波の入江が日下の入江に通じていたからである。