『記』・『紀』における第二代綏靖(すいぜい)天皇から第九代開化天皇までの記載はきわめて簡単でめぼしい事蹟もなく、天皇の諱(いみな)も造作されたものらしい。それにくらべて第一〇代崇神天皇以後になると、記載が豊富になる。これはよるべき伝承などが残っていたからであろう。ここで注意されるのは、神武天皇(『紀』に始馭天下之天皇)と崇神天皇(『記』に所知初国天皇、『紀』に御肇国天皇)は、ともに最初の天皇を意味するハツクニシラススメラミコトとよばれているのはおかしいことであり、こういう場合は新しいほうの崇神が実在で、古いほうの神武が造作されたと考えられる。なお神武天皇の東征伝説は、継体朝の史実などにもとづいて、後から造作されたらしいことが考察されている。
また『書紀』に記される年代について、それが実際の年代よりもずっと古い時代にさかのぼらせてあることや、その年数も実際より長く引き伸ばされていることが指摘されている。すなわち推古二八年(六二〇)に、聖徳太子と蘇我馬子らが中心となって行なった歴史編集のさい、讖緯(しんい)思想に説く辛酉革命説によって、初代神武天皇の即位年代が、推古九年辛酉(六〇一)から一蔀(いっぽう)一二六〇年前の辛酉年(紀元前六六〇)に推定したので、『書紀』に記される年代はあてにならなくなっている。『書紀』にみえるところでどのとき以前の年代があてにならないのかというと、日本から南朝の宋への遣使記事(『宋書』)や、『書紀』にみえる百済王の代替わりの記事(『書紀』所引の『百済記』や『百済新撰』による)などから考えると、『書紀』に記される年代は、「雄略紀」になると正確になり、『宋書』などと一致する。「雄略紀」以前にみえる年代は実際よりも古い時代にさかのぼらせてあり、かつ、年数も実際よりも引き伸ばされている。どのくらいのずれがみられるかというと、神功皇后紀から雄略紀の初めあたりまでにみえる百済王の代替わりは、実際よりも一二〇年古くさかのぼらせて記されている。年代が実際よりも古くさかのぼらせて記されるのにともなって、事件の年数も実際よりもひきのばされているわけである。たとえば、古い時代の天皇の在位年数や宝算(享年)が常識をやぶる長い年数になっているのがそれである。