書紀の年代のずれ

588 ~ 590

『書紀』における年代と年数のずれを訂正する手段にどのようなものがあるかというと、同一事件が『書紀』と中国史料・朝鮮半島史料の両(三)方に記されている場合は、『書紀』のいう年代や年数を捨て、中国史料・朝鮮半島史料にしたがえばよいわけである。たとえば『書紀』神功皇后条と応神天皇条にみえる日本軍の朝鮮半島出兵は、百済の記録によって記されながら、年代を実際よりも干支二運だけ古くさかのぼらせているので、これを訂正するには逆にその記載年代よりも一二〇年引き下げれば訂正することができ、朝鮮半島への出兵は三六九年と三九一年であったのである。三九一年の出兵については、『好太王碑文』もたしかな史料であって、『書紀』にいう出兵年代を訂正する材料となる。三九一年の出兵は応神朝が行なったものとみる可能性が大きく、応神朝の期間はこの三九一年を含むものと考えられている。

460 朝鮮史料のうち『三国遺事』

 使節を中国に派遣した年代などに関する中国・朝鮮半島の史料の記載と、『書紀』のその年代とは、雄略朝の記事になると一致してくる。これは『書紀』に記された年代が正しいものになっていることを示すものである。

 それでは歴代天皇の実在について、信憑性をもつのはいつごろからであるかというと、それは応神天皇のころからであるといわれている。たとえばその諱は誉田(ほむた)(別)であるが、それは素朴で、修飾されたものとは考えられないこと、などがあげられている(井上光貞「帝紀よりみた葛城氏」『日本国家の起源』)。応神朝の実年代は三七五年・三八二年・三九一年をふくむ前後の時代と考えられる。

 このように『書紀』など日本の歴史書からは、応神朝以前の歴史を詳しく知ることは不可能である。そこで応神朝以前の歴史については、主として中国の史料などを用いるのが常で、周知のように三世紀の邪馬台国に関する『魏志倭人伝』がそれである。この場合にしても、三世紀の日本列島に邪馬台国が存在したことは、『魏志倭人伝』によって明らかであるが、これが『書紀』の応神朝以降の大和朝廷とどう関係するのかは不明である。『魏志』は四世紀以降の邪馬台国について何も伝えないし、『書紀』は邪馬台国そのものについて一行も触れていないからである。

 応神朝以降については、先にもふれたように中国の歴史書にも倭の五王が記され、『書紀』の記事にも信頼性が増してくる。この五世紀の倭の五王以前の歴史については、主として考古学の領域にゆだねるのが妥当であろうと思われるのである。