応神陵の面積と体積はともに仁徳陵を凌駕するといわれ、当時の兵役と力役の不可分な関係を思えば、このように巨大な前方後円墳が築かれたのは、三九一年からの半島出撃が可能であったほどに、朝廷の権力が一応確立していた状況を示す。これよりさき三六九年にも日本は新羅を討っており、応神は三七五年に在位していたと考えられるから、これに年代が接する三六九年の新羅進出も、おそらく応神朝の軍事行動であろう。四世紀末から五世紀にかけて築かれた河内東南部や大和北部などの古墳に、鉄材・鉄製の農工具・武器の埋蔵量が急増するのは、応神朝の半島進攻と深い関係をもつといえよう。
応神陵が誉田の地に築造されたのはどのような事情によるのか。『古事記』によれば、応神は品陀真若王(景行天皇の子)の三人の娘をめとり、一三人の男・女が生まれている。誉田の地名について、本居宣長はつぎのように指摘している。誉田の地名は、品陀真若王がここに住んだことに負うもので、(もとの地名は蓬蔂丘(いちひこのおか)であり)応神も若いときここに住んだので誉田別といい、かつ品陀真若王の娘をめとるにいたったのであり、応神天皇の崩後に陵をここに築造したのも、最初に居住した因縁によると。しかし古市古墳群は応神天皇陵によって始まったのではなく、天皇陵よりも古く築かれた古墳の存在が認められている。このような古墳を営んだ皇親あるいは豪族の勢力が強化されたところに、巨大な応神天皇陵をこの地に造りえた理由があるといえよう。なお、他の条件として、四一四年、高句麗で好太王の陵が築造されたことの影響を考え、これに対抗し、来朝する半島諸国の使節に示威を行なう意味をもつとされている。誉田の地が海外交通の路線であった大和川流域に位置したことも、その意図に適したことであろう。その後も引きつづいて陵墓・古墳が相ついで営まれ、その内容も豊富で複雑なものが見られた。古市古墳群の形成は、国家統一の発展期における国家権力がここに結集したことを物語るものである。