応神朝は、対外的進出によって、国家の統一と発展を推進しようとした時期と考えられるが、仁徳朝は、半島進出が高句麗によって阻止されたのち、国内の整備に力をつくした時期であったとみられる。築堤や池溝開発の記事が多くみられるのは、半島経営によって鉄と土木技術がもたらされたこと、およびそれらの技術者たちが渡来してきたことによるといえよう。富田林を流れる石川から引水した感玖の大溝の築造も、仁徳朝におけるそのような事業のひとつである。
『書紀』の仁徳天皇一四年条に「大溝を感玖(こむく)に掘る。乃(すなわ)ち石河の水を引きて、上鈴鹿・下鈴鹿・上豊浦・下豊浦の四処の郊原(はら)に潤(つ)けて、墾(つく)りて四万余頃(しろ)の田を得たり」と記される。感玖は『倭名抄(わみょうしょう)』にみえる河内国石川郡の紺口郷の地にあたり、『延喜式』神名帳にも石川郡に咸古神社・咸古佐備神社があげられ、『春日神社文書』には紺口荘が記されていて、現在の河南町に寛弘寺の地名が残っている。しかし、鈴鹿や豊浦の地については明らかでなく、感玖の大溝がどの地に掘られたかについて議論がある。
秋山日出雄氏は、昭和三九年(一九六四)古市古墳群の航空写真の観察と当地域の実地踏査によって、「古市の大溝渠」を発見した。白鳥陵(日本武尊陵)と墓山古墳の間を東西に横切る一大溝渠が、古市の大溝渠の一部である(463参照)。この溝渠は、東へ延びると白鳥陵東方の濠と考えられる低地につづく。西へ延びると丘陵を横切り、丘陵の西の縁辺に達したところで第一の折点となり、仁賢天皇陵所在の谷地を横切り、仁賢陵の東から仲哀陵の東南に至って第二の折点となり、仲哀天皇陵の南を西北西に延び、羽曳野丘陵を東西に横断するかのように深い堀切りとなって藤井寺球場の南方に達し、ここから自然の谷地を利用して北に流れ、藤井寺付近の農耕地帯に至っている。
第一の折点より白鳥陵後方までの丘陵を横切る約三〇〇メートル間は、幅約二〇メートル、深さ約二メートルの深く長大な堀切りとなっており、その他は丘陵の東と西の縁辺部をめぐるため、その外側は堤防となっている。仁賢天皇陵東方付近は平地を横切るため、約七〇〇メートル間は、高さ二・三メートルの堤防が両側に築かれている。仲哀天皇陵の南方の部分は、幅二〇~三〇メートル、長さ五〇〇メートルほどの直線の堀切りをなしている。古市溝渠の全長は約四キロの長大なもので、現地を見ると、堀切りの部分は城濠または運河のようで、堤防の部分は一大土城のように延々とつづく。
古市の溝渠の第一折点で二つに分かれる水路の一つは、白鳥陵の後方の水田化した外濠につづき、もう一つは清寧陵の濠につづくようである。大溝渠は白鳥・清寧二陵の濠の水を受け、第一と第二の折点間では仁賢陵の濠の水を受けて北流し、第二折点で二分して、一つは仲哀天皇陵東北方の水田へつながり、他方は藤井寺以北の水田地帯に水を導いているとみられる。すなわち、古市の大溝渠の水は允恭天皇陵以西で東除川以東、羽曳野丘陵以北の広大な水田地帯と密接に関係する。このことは、狭山池(南河内郡狭山町)の水が仁徳天皇陵(堺市)の濠にそそがれ、さらに付近の水田に灌漑される例とともに、一般に前方後円墳の水濠が農耕灌漑用の使途をもつことを物語る。
秋山氏は以上のように述べたあとで、『書紀』の仁徳天皇一四年条の感玖の大溝にふれ、「これは道明寺・柏原付近より北流し、生駒山脈西麓の水田地帯を潤す灌漑水路と考えられていて、現在も尚其の生命を保っていると思考されている」と記し、感玖の大溝を古市の大溝渠とは別個のものとしているが、両者はともに石川の水と関係をもつと考えており、それは右の文にすぐつづいてつぎのように記していることから知られる。すなわち秋山氏は、「前記古市の大溝渠も或いは其の源流は遠く南方の喜志や富田林に迄到り、石川の水を左岸に引き羽曳野丘陵北方に引くための溝渠であったとも見られる。かくて豊浦に至る右岸の溝渠と共に石川の両岸の灌漑の為の古墳時代の一大水路と考えられない事はない」と記している(「前方後円墳の企画性と条里制地割」『古代学論叢』)。