感玖大溝と古市大溝

597 ~ 598

秋山氏はその後さらに調査と考察を進め、古市の大溝渠について、新稿でつぎのように記述している。

現在の富田林市所在の石川河南橋の橋詰の「サブタの堰」より延々一里の水路を通じて西浦へ引漑されて来た水路の下流である事が判明した。尤も古市大溝渠と西浦聚落との間は現在では直接的に連絡はしないが、古市の大溝渠は白鳥陵後方の堀切りの部分に続く事は間違いがないし、此の堀切りと西浦聚落の間は現在では近畿日本鉄道株式会社の古市車庫となって潰滅してはいるが、ここは西浦聚落内の溝より引漑した事は古老の言に確実な所である。さて「サブタの堰」より引漑した水は途中富田林大深より羽曳野市広瀬・東阪田・水守と引かれ、羽曳野市新町の東南に於て此の水路を堰止め、等高線に沿って西浦へ引水しそれが古市大溝渠に引漑されて来ている事になる。なおこれとは別に新町の堰より東方へ等直角に流下した水は高屋・古市の西を通り、応神陵の外濠へ注ぎ、津堂城山古墳の方へ流れる旧大乗川であって、大乗川は応神陵とは不即不離の関係にある。かくて此の古市の大溝渠は石川の水を左岸に引き西浦に灌漑し、藤井寺付近より旧丹南・志紀郡の方へ石川の水を引く事が判明して来ると、かの仁徳紀に見える感玖溝を想起しないではおられない。

 このように記したのち、秋山氏は、仁徳天皇紀一四年是歳条にみえる感玖の大溝に関する記載を引き、

かくて感玖の地が南河内郡河南町から千早赤阪村にかけての地であり、古市の大溝渠が旧河南町より志紀郡への水路である事を見れば、此の感玖溝はほぼ古市の大溝渠を指すものと考えて大過はないと考えられる。

といわれ、この説によると感玖の大溝は古市の大溝渠と同じとするものである(「条里制地割の施行起源」『日本古文化論攷』)。

465 古市大溝の取水口と推定される富田林市河南橋付近