秋山氏の論考がでて以来、大溝渠については、いくつかの見解が提出されている。そのうちでも最近、原秀禎氏が発表された「古代の『古市大溝』に関する地理学的研究」(『人文地理』三一―一)という論考は、羽曳野丘陵東部の段丘群や、石川の氾濫原について、地形学的調査を行ない、溝渠築造期の地形・環境を復原するという基礎の上に立って、古市大溝の水路を推定しようとされたもので、注目に値する。
原氏は、現在「古市大溝」の保存状態が最も良い細池地点から中ノ池地点の区間についての特徴的な事実として、ともに三六メートル等高線上にのっていることに注目し、つぎのように地形学的観点から考察を加えている(466参照)。標高三六メートル以上の地点から水を引いてくれば、この細池―中ノ池間に引水することが可能になる。そこでこの三六メートル等高線をたどってゆくと、細池から東に向かって白鳥陵の北・東・南とつづき、清寧陵の南から西浦の集落を通って新町に至り、東阪田から河南橋北方の石川左岸へとつづいている。このような事実は、富田林市にある河南橋北方の石川左岸より、細池・中ノ池へ石川の水を引水することが十分可能であったことを物語っている。また石川左岸のどの地点が取水口として最も理想的であるかという点については、その条件として標高が三六メートル以上あること、さらに中位段丘、下位段丘によって水路が妨げられないことが必要で、したがって河南橋と標高三六メートル等高線との間から取水することが最も妥当であり、大乗川の取水口である地点1は、これらの条件を備える、と述べる。
なお原氏の説はつづく。すなわち「古市大溝」は地点1から三六メートル等高線にそって地点4に至り、そこで井関を設け、一方を段丘面上に至る水路に、もう一方を大乗川の水路に分岐させていたと考えられる。そして地点4において分岐した水路は三六メートル等高線に沿って北西流し、新町から西浦へ至り、白鳥陵の南から段丘面上にのることになる。ただ新町―西浦間は扇状地であるため土砂の堆積が継続し、古代における地形面は埋積されている可能性が強いが、地点4から三六メートル等高線に沿って流れる水路が現在も認められ、溝渠の痕跡を示すものではないかとされている。さらに、三六メートル等高線の延長上に溝状の地割や地形、あるいは溝渠跡を想定させる小字が残存することから、地点4から14に至る溝渠の存在はまず間違いない。地点14―19間の溝渠については、中位段丘崖下で溝渠跡が確認されており、連続していたことは確実である。
以上のように、原氏は、富田林市にある河南橋北方の石川左岸から新町・西浦をへて白鳥陵と墓山古墳との間、地点19に至る溝渠跡を地形学的に検討復原され、そうして19細池・20中ノ池―21中池という最も明瞭に溝渠の景観をとどめる区間に連続させている。
原氏の復原された大溝渠の水路そのものは秋山氏のものと基本的には変わらないが、これを地形学的検討の上にたって、推定されたもので、立論の基礎は一層かたくなった。
これによって、古代の仁徳朝期に富田林地方から羽曳野地方にかけて築造された大灌漑水路が現在においてほぼ確認せられているといえよう。