倭の五王の時代には上述のように開発が盛んであった。だが南河内地方の開発の上限に関する史料として見ておかねばならないのは『書紀』の崇神天皇六二年条に「七月の丙辰(二日)に、詔して曰く、『農は天下の大きなる本なり。民の恃(たの)みて以て生くる所也。今、河内狭山の埴田(はにた)水少し。是を以て、其の国の百姓、農の事に怠る。其(そ)れ多(さわ)に池溝を開きて、以て民の業を寛めよ』冬十月、依網池を造る。十一月、苅坂池、反折(さかおり)池を作る」とみえる記事である。狭山池のことは『古事記』では垂仁天皇段に「印色入日子命(いにしきのいりひこのみこと)は、血沼池を作り、又、狭山池を作り、又、日下の高津池を作りたまひき」と記され、これらが河内の狭山の池や狭山池の初見で、狭山池の築造は崇神・垂仁朝ごろに行なわれたとか、あるいは崇神朝に築造がはじまり、垂仁朝に完成したといわれる。しかし『記』・『紀』における崇神・垂仁朝に関する記載には史料批判が必要である。
崇神朝の時代に関しこれを推定する方法としてつぎのように考えられている。二六六年に邪馬台国の壱与(台与(とよ)の誤という)による晋への遣使から三六九年の朝鮮半島出兵まで対外交渉が中絶するのは、この間に大和朝廷が国内統一事業を進めたことと関係があり、その統一事業の推進は応神朝からさほど遠くさかのぼらない時代のことと推定される。『記』・『紀』によるとその歴代は崇神・垂仁・景行天皇の時代に相当し、とくに崇神天皇の事績として、四道将軍派遣、税制創始、祭政分離などは大和朝廷の発展を暗示し、また考古学的研究によれば四世紀ごろから高塚古墳の成立が顕著となることなどからみても、ハツクニシラススメラミコトとよばれた崇神天皇の時代は、三世紀後半に属する可能性をもつと考えられている。