大和朝廷による国土統一と軌を一にして南河内は開発された。もちろんそれまでに弥生文化をつちかった生活の蓄積があったことはいうまでもない。そのえいえいたる開発の努力の上に、大和朝廷の力による開発がつけ加えられたのである。大王を頂点とした大和国家の成立を示すものは古墳である。古墳は三世紀末から四世紀にかけて発生した。こののち七世紀中葉の大化改新による律令国家の成立までの時期が古墳時代であるが、この時期の国家組織や地方制度については不明の部分が多い。歴史家の間でもいろいろな見解が対立している。
ごく単純化していえば、大和朝廷とは諸地域を支配した王たち、つまり諸豪族の連合体であり、その頂点に立つものが大王すなわち天皇であった。大王はその支配をより強固にするため直轄領や直属民を諸地域に置き、諸豪族の力を弱めるため、いろいろな統制を加えようとした。諸豪族たちはまた大和朝廷の一員となり、その権威を背景にすることで、自分の支配をより強固なものにしようとした。したがって諸豪族たちの支配地は、かれらの支配地であるとともに、かれらの連合組織である大和朝廷の土地でもあり、その頂点に位置する大王の土地でもあった。諸豪族の力が弱化したり、あるいは大王の力がより強大化すれば、それは朝廷や大王の直轄地と化するような性格をもっていた。逆に大王の力が弱くなり、諸豪族の力が強大になれば、諸豪族の支配地はあたかも独立国の色彩を濃くする。こうした複雑な力関係を背景に、それぞれの支配領域として設定された地域が、国とか県(あがた)とか邑(むら)とか屯倉(みやけ)とか呼ばれた。同様にそれらの土地を支配する諸豪族は国造(くにのみやつこ)とか県主(あがたぬし)とか稲置(いなぎ)とか呼ばれたのである。それらの内容は時代とともに変化するし、残された史料も多くはない。その解釈をめぐっていろいろの見解を生じるのは当然である。以下しばらくそれらの見解について記しておこう。