県や邑の上の単位で、大和朝廷の地方制度のうちでもっとも広いものは国である。各国には国造が置かれていたが、のちの令制の国や国司とはその内容を相当異にしている。令制の河内・和泉・摂津国を含む広い範囲が、当時ではひとつの国で、その国造は凡河内(おおしかわち)氏であった。この地域に置かれた県には、猪名・三嶋(摂津)、茅渟(和泉)、三野・志貴・紺口(河内)などがあったが、河内の県については後述しよう。
凡河内国造の支配した領域のうちで和泉国については、その成立年代は明らかである。『続紀』霊亀二年(七一六)四月一九日条に「大鳥、和泉、日根の三郡を割いて、始めて和泉監を置く」とあり、同天平一二年(七四〇)八月二〇日条に「和泉監を河内国に并す」、同天平宝字元年(七五七)五月八日条に「和泉等の国は旧に依て分ち立てよ」とある。和泉国は奈良時代に河内国から分立されたものである。
摂津国あるいは津国については、『書紀』応神天皇四一年二月是月条にすでにみえるが、なんらかの行政単位ではなく地名を示しているにすぎない。行政単位と推定できる例は、『書紀』では天武天皇四年(六七五)二月九日条が最初である。天武朝初期に摂津国が分立されたとみることができよう。
このように令制の国の分立以前には、これらの地域はひとまとまりで凡河内国造に支配されていたのであるが、凡河内国造については吉田晶氏の詳細な研究がある(『日本古代国家成立史論』)。以下、本地域と関係するかぎりで、氏の研究の成果を紹介しておきたい。
(1)凡河内国造の氏族としての本拠地は、令制の摂津国莵原郡(神戸市東南部)で、河内国魂神社もそこに所在する(470)。河内国魂神社は『延喜式』神名帳に、摂津国莵原郡の項に載せられている。国魂神社は一般に令制の国を単位として設置された新しい神社である。したがって河内国魂神社が摂津国にあるのは、本来ならばおかしいことである。しかし『続紀』慶雲三年(七〇六)一〇月一二日条によって、摂津国造(令制の国造で、令制の国内の全般的な祭祀にあたるもので、大化前代の国造とは異なる性格である)には凡河内忌寸石麻呂が任ぜられていることがわかる。凡河内氏の本来の本拠地にあった神社が国魂神社となり、のちにその地が令制の摂津国となったので、このような事態が起きたのである。
(2)凡河内国造は、大王家にとって重要な務古水門を支配していたがゆえに、国造に任ぜられた。
(3)凡河内氏は、「河内」を氏の名に含む渡来系氏族に対する統轄的地位を占めた。
(4)紺口県など河内の県への影響力を持った可能性は否定できず、凡河内氏はこうした国造としての業務を行なうため、河内地方のもっとも重要な地域である志紀地方に定着した。しかし志紀に凡河内氏と関係する氏族や神社は全くなく、これは国造という国制上の地位を利用して凡河内氏がこの地に定着したためである。
このように凡河内国造は、大化前代に南河内地方にも大きな影響力をもった。とくに志紀地方に定着後は、志貴大県主と同族関係によって結ばれていた紺口県主などとはさまざまな交渉があったに相違ない。しかしそれに関する史料は全く残されていないので、これ以上論及することはできないのである。