国の下の地方単位とみられるのが県で、県の支配者は県主である。南河内にも県が設置された。それを考えるさいまず古墳が注目される。南河内に残る四世紀の古墳として、富田林市大字新堂に真名井古墳(四世紀後半、旧石川郡・471)があり、隣接地域ではヌク谷北塚(四世紀後半、柏原市国分字ヌク谷、旧志紀郡)、駒ケ谷宮山古墳(四世紀後半、羽曳野市駒ケ谷、通称宮山、旧安宿郡)、玉手山古墳(四世紀、柏原市玉手町、旧安宿郡)、松岳山古墳(四世紀、柏原市国分市場一丁目、旧安宿郡)、大師山古墳(四世紀、河内長野市日東町、旧錦部郡)などがあり、山や丘陵の上に造られている。
これらの古墳を造った豪族の事績を語る文献史料は存しないが、ただそれらの豪族は大和朝廷となんらかの関係を持っていたであろう。その場合、まず考えられるのは、その豪族が県主の場合である。
県の分布については、常陸の場合を除き東限は美濃・尾張・北陸道で、西日本に濃厚にみられる。なかでも大和・河内・吉備・筑紫などに最も多く、屯倉の経営と密接な関連をもち、畿内では前期古墳(三世紀末から四世紀代の古墳)の分布と対応することが、すでに指摘されている(上田正昭『前掲書』)。この見解にしたがって南河内に本拠をもった県主の名を史料に求めると、紺口県主と志貴大県主がある。ところでかれらが史料にあらわれるのは後代のことであるけれど、その活動は古くさかのぼることが史料の検討によって知られる。
紺口県主は『新撰姓氏録』の皇別(四六氏)のなかに、「紺口県主は志紀県主と祖を同じくし、神八井耳(かむやいみみ)命の後なり」と記され、神八井耳命は、神武天皇の第二子で、母は皇后の媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)命である。神武天皇の崩後に庶子の手研耳(たぎしみみ)命(母は吾平津媛)が弟の神八井耳命・神渟名川耳命(かんぬなかわみみのみこと)を殺そうとしたので、神八井耳命は神渟名川耳命とともに手研耳命を射殺し、神八井耳命は戦いのさいの懦弱を恥じ、弟の神渟名川耳命を即位させ(綏靖天皇)、自分は弟の政治をたすけ、神祇をまつることにあたった。また多臣の始祖とされる(『書紀』・472)。
『古事記』の神武天皇の段にも当芸志美美命(たぎしみみのみこと)(手研耳命)と戦った物語がみえるが、神八井耳命の後裔として意富臣・小子部連・坂合部連・火君・大分君・阿蘇君・筑紫三家連・雀部臣・雀部造・小長谷部造・都祁直・伊余国造・科野国造・道奥石城国造・常道仲国造・長狭国造・伊勢船木直・尾張丹羽臣・島田臣などをあげている。
『新撰姓氏録』では神八井耳命の後裔として紺口県主のほかに、多朝臣(左京皇別)・小子部宿祢(同上)・島田臣(右京皇別)・茨田連(同上)・志紀首(右京皇別・河内皇別)・薗部(右京皇別)・火(同上)・肥直(大和皇別)・志紀県主(河内皇別・和泉皇別)・雀部臣(和泉皇別)・小子部連(和泉皇別)をかかげている。
久安五年(一一四九)三月の「多神宮注進状」(『和州五部神社神名帳大略注解』所引)に「神八井耳命は帝(神武天皇)の宮より以降は当国(大和国)春日県(後に十市県と改む)に居る」と記され、また同注進状の裏書に「下居神社一座は神八井耳命の霊なり。是れ即ち太朝臣・小子部連・肥直・都介直・志貴県主らの遠祖なり。また河内国志貴郷県主神社と同体異名なり」と記される。