紺口県主の名は『記』・『紀』にみえないけれど、紺口は地名として前引のように『紀』の仁徳天皇一四年条に「また大溝を感玖に掘る」とみえる感玖に相当し、その地は、読みかたが地名の寛弘寺(南河内郡河南町。石川にそそぐ東条川左岸)の寛弘に類似することからこの地に比定されている。
このように紺口に相当する感玖の地名が『書紀』に記されること、『姓氏録』に紺口県主は志紀県主と同じく神八井耳命の後裔と伝えられ、両県主は同族であること、紺口郷は志紀大県主の本拠の志紀郷の南方にあたり、石川流域の低地によってつづいていること、などから紺口県と紺口県主の存在は証される。
さらに推測をかさねると、式内社の建水分神社が寛弘寺の東南約一キロの千早赤阪村大字水分に鎮座し、またこの鎮座の地は富田林市竜泉の咸古神社の東方約一・五キロと近接することは、これらの神社の起源が仁徳朝の石川引水の灌漑土木工事と無関係でなく、紺口県主は治水や配水の面で支配統率権をにぎり、大和朝廷による県の設置・開墾などに協力したであろうことを思わせる。灌漑用水のゆたかなことや、洪水などの災害のないことなどを条件に社が発展して神社となったのであるが、紺口県主はこのような農業神をまつることに無関係でなかったであろう。
ただ『書紀』仁徳天皇一四年条にみえる鈴鹿と豊浦の位置は明らかでなく、四万余頃(しろ)(約八〇町歩)という面積もそのままうけとれないけれど、『書紀』の記載は仁徳朝における河内東南部の平野の開墾・灌漑のひとこまを伝えている。寛弘寺の地にあるツギノ木山古墳群は五世紀の築造と考えられ、これはあるいは紺口県主の子孫によって造られたとも推測される。