志紀大県主

613 ~ 615

南河内地方に本拠をもった県主として、紺口県主のほかに志紀大県主がある。『姓氏録』の河内皇別のなかで、志紀県主は「多朝臣と同祖にして、神八井耳命の後なり」と記され、また神八井耳命の後裔として紺口県主(前述)や志紀首らがあげられている。

 志紀の地名は『古事記』の景行天皇の段の倭建命(やまとたける)(『書紀』には日本武尊と記される)の死をめぐる白鳥伝説のなかにみえる。伊勢(三重県)の能煩野(のぼの)(鈴鹿市)に没した倭建命の霊魂は白智鳥(白い千鳥か、または白い鳥の意)となって天がけり、河内国の志幾に留まり、そこに白鳥陵が築かれたとみえる。

 『書紀』ではつぎのように記している。日本武尊は能褒野の陵に葬られたが、白鳥と化して倭(大和)の琴弾原にとどまり、そこに陵が造られた。ところがまた白鳥はそこを飛び去り、舊市(ふるいち)邑にとどまり、また陵が造られ、時の人は三陵(能褒野・琴弾原・舊市邑)を白鳥陵といった。しかも白鳥はこの陵から高く翔び天に上り、陵にはただ日本武尊の白い衣と冠とを葬りまつることになった。そこで日本武尊の功名を後世に伝えようとして武部という部民を定めた。

 白鳥が河内にとどまった地を『古事記』に志幾とし、『書紀』に舊市邑とし、細部では志幾(『和名抄』の志紀郡か志紀郷)と舊市(古市。『和名抄』の古市郡)とでは相違があり、倭建命(日本武尊)陵といわれるものが羽曳野市軽里にあるのは、古市あたりまで志紀とよばれたときがあったためであろうか。

 志紀県主は『古事記』の雄略天皇の段につぎのように記される。雄略天皇は大和の泊瀬朝倉宮(桜井市の黒崎・岩坂付近)にいたが、日下(東大阪市)にいた若日下部王(のち皇后)をたずねるため、日下の直越えの道から河内に行幸し、山上で国見をしたさい、堅魚木を並べた家が目にとまり、「誰が家ぞ」と問うたところ、志紀大県主の家であると答えた。天皇は怒り、「奴や、己が家を天皇の御舎(みあらか)に似せて造れり。(おのれ!自分の家を天皇の住居にまねて造ったな。怪しからぬ)」といい、大県主の家を焼かせようとした。大県主は恐れかしこんであやまり、能美(のみ)の御幣(みまひ)の物(ひれふして罪を謝すための贈りもの)を献上したので、天皇は火をつけることをやめた。以上の記述は、天皇を怒らせるほどに豪壮な家屋をかまえていた大県主の勢力を物語る。

 また志紀郡の名は天武天皇一四年(六八五)の『金剛場陀羅尼経』巻一の奥書に「歳は丙戌に次(やど)る年の五月、川内国志貴評内の知識は、七世の父母、及び一切衆生の為めに、敬(つつし)んで金剛場陀羅尼経一部を造る。此の善因を藉(か)りて、浄土に往生し、終に正覚を成ぜんことを。  教化僧宝林」とみえる(『大日本古文書』二四―一)。志貴は志紀に相当し、評は大宝令において郡に改められるもので、大化改新のさい地方行政組織として川(河)内国におかれた評の一つが志貴評であった。志紀郡の名は『続日本紀』の和銅六年(七一三)六月一九日の条からみえる。

 『和名抄』によれば、志紀郡の郷として長野・拝志・志紀・田井・井於・邑智・新家・土師の八郷が記され、これらの郷をふくむ志紀郡は長瀬川に沿い、北では渋川郡・若江郡、東では大県郡・安宿郡、南では古市郡、西では丹北郡に接した。志紀郡の中心の志紀郷は藤井寺市国府(旧道明寺村大字国府)付近にあたり、式内社の志貴県主神社は大字国府に鎮座し、志貴大県主の氏神と考えられる(473)。道明寺村大字北条(藤井寺市)の黒田神社と旧志疑神社も式内社である。このようにみてくると、大化以前の志紀大県主の勢力圏はほぼのちの志紀評(郡)の地域で、本拠は国府と推定され、のちの律令制時代の国衙の所在地もこの付近であった。

473 志紀大県主氏の本拠地・志貴県主神社(藤井寺市)