河内に本拠をもった県主として他に三野県主があり、今の八尾市に三野郷の地名が残っており、明治二二年(一八八九)四月の町村制施行にさいし、三野郷村などの八カ村は河内郡を構成した。天武天皇一三年(六八四)正月一七日条に三野県主は連の姓を賜わり、三野氏は美努・美濃・三濃とも書かれる。『新撰姓氏録』の美努連(角凝魂命(つぬごりたまのみこと)四世の孫の天湯川田奈命の後)は河内の神別以外に見あたらないから、大化前後の三野県主は若江郡一帯に勢力をおよぼしていたことが知られる。三野郷村大字上の島(八尾市)に残る御野県主神社は美努連らの祖神の角凝魂神と天湯川田奈命を祭り、『延喜式』神名帳では若江郡に鎮座すると記され、神社所在の郡名が前に若江郡で、後には河内郡となっていて相違するのは、中世に郡界が移動したからである(井上正雄『大阪府全志』)。三野郷は、その名称と御野県主神社の所在とから推せば、三野県主の本拠であった。東大阪市の弥刀(旧若江郡)に鎮座する弥刀神社は水戸神を祭るが、一説に天湯川田奈命を祭るともいわれ(『布施町誌』)、祭神の天湯川田奈命を通じて三野県主(のちの美努連)は旧布施市域とも何らかの関係をもつ氏族であった。
雄略天皇が崩じ、清寧天皇(母は韓媛)が即位しようとすると、星川皇子(雄略天皇と稚媛との間に生まれた)が皇位を奪おうとはかって乱をおこした。大伴室屋(大伴金村の祖父)は当時の大連で、政府で第一の有力者であり、雄略天皇の遺詔を受けて後事を託されていたので、すぐに東漢掬直(やまとのあやのつかのあたい)に命じ軍士を遣わし、星川皇子らを滅ぼした。
このとき星川皇子にしたがっていた河内の三野県主小根が、焼き殺される星川皇子らを見て恐れおののき、火をさけて逃れたが、のち草香部吉士漢彦を通じて大伴室屋に助命を乞うて許された。小根は難波の来目邑(くめのむら)大井戸の田一〇町を室屋におくり、漢彦にも若干の田を与えてむくいた(『書紀』)。来目邑大井戸は『摂津志』に遠里小野(おりおの)(大阪市住吉区)の旧名であると記している。田地の単位を町で呼ぶのは大化改新以後のことであり、大化以前の制ならば代(しろ)(頃)と記されなければならないから、町の単位で書いたのは『書紀』編者があとから潤色したもので、ともかく三野県主が皇室と深い関係を保っていたことや、難波に勢力をおよぼしていたことも知られる。
若江郡に本拠をもつ三野県主(天武一三年以後は美努連)が難波にも勢力をもっていたという推定を援助するものとしては、のち承和一二年(八四五)に美努宿祢の姓を賜わり、筑前から河内国若江郡に移貫された難波部主足(権主工従八位上)があることを付記しておきたい。