桜井屯倉の設置

617 ~ 619

『書紀』の安閑天皇元年一〇月一五日条につぎのような記事がある。

天皇、大伴大連金村に勅して曰はく「朕、四(よたり)の妻を納(めしい)れて、今に至るまでに嗣(みつぎ)無し。萬歳の後に、朕が名絶えむ。大伴の伯父(おきな)ども、今何に計(はかりこと)を作(せ)む。毎(つね)に茲(これ)を念(おも)ひ、憂へ慮ること何ぞ已まむ」とのたまふ。大伴大連金村、奏して曰さく「亦、臣(やつかれ)憂(うれ)へまうす所なり。夫れ我が国家(みかど)の、天下に王とましますは、嗣有、嗣無ことを論はず。要須(かなら)ず物に因りて名を為す。請(うけたまは)らくは皇后(きさき)・次妃(つぎのみめ)の為に、屯倉の地(ところ)を建立(た)てて、後代に留めしめて、前の迹(あと)を顕(あらは)さしめむ」とまうす。詔して曰はく「可(ゆるす)。早に安置(お)け」とのたまふ。大伴大連金村、奏して稱(まうさ)く「小墾田(おはりた)屯倉と国毎の田部とを以て、紗手媛(さてひめ)に給貺(たま)はむ。桜井屯倉一本に云はく、茅渟山屯倉を加へ貺(たま)ふといふ。と国毎の田部とを以て、香香有媛(かかりひめ)に給賜(たま)はむ。難波屯倉と郡毎の钁丁(くはよほろ)とを以て、宅媛(やかひめ)に給貺(たま)はむ。以て後に示して、式(も)て昔を観(み)しめむ」とまうす。詔して曰はく「奏の依(まま)に施(ほどこし)を行へ」とのたまふ。

この記事の大意はこうである。安閑天皇の四人の妻に子がないので、天皇の名が後世に伝わらなくなるのを恐れ、大伴金村に相談した。大伴金村は「屯倉を設置し、名を後代に伝えれば」と答え、天皇はそれを許可した。そこで大伴金村は、(イ)小墾田屯倉と国毎の田部を紗手媛に、(ロ)桜井屯倉と国毎の田部を香香有媛に、(ハ)難波屯倉と郡毎の钁丁を宅媛に賜わることにした。

 安閑天皇の四人の妻のうち残る一人は、皇后の春日山田皇女であるが、皇女は継体天皇八年正月すでに匝布(さほ)屯倉を与えられている。皇女は仁賢天皇と和珥(わに)臣日爪(ひつめ)の娘糠君娘(あらきみのいらつめ)の子で、山田大娘(おおいらつめ)とも赤見皇女(あかみのひめみこ)とも山田赤見皇女とも記されている。また前引史料の紗手媛は許勢男人(こせをひと)の娘で、香香有媛は紗手媛の妹である。宅媛は物部木蓮子(いたび)の娘である。

 前述の(イ)小墾田屯倉は大和国高市郡、(ハ)の難波屯倉は摂津国西成郡(大阪市)、山田皇女の匝布屯倉は大和国添上郡であろう。問題となるのは、(ロ)の桜井屯倉である。この桜井屯倉の位置については、東大阪説と富田林説があるからである。もし富田林説が認められれば、桜井屯倉の設置は富田林の歴史に大きな意味をもつことになる。しかも屯倉の設置計画をたてた大伴金村は、富田林に大伴の地名を残しているように、本地域とは深い関係がある。

 また『書紀』の安閑天皇二年九月三日条には「桜井田部連・県犬養連・難波吉士等に詔して、屯倉の税を主掌(つかさど)らしむ」とあり、桜井を冠する桜井田部氏と本地域の関係などもからみ、桜井屯倉の位置については慎重に検討しなければならない。