桜井屯倉を東大阪市に求める説の一つに今井啓一氏の考察があり(「桜井屯倉と大戸御宅」『枚岡市史』第一巻)、同市史第三巻史料編や坂本太郎等校注『日本書紀』(下)も東大阪説をとっている。
今井氏は、「香香有媛(建内宿祢系の許勢男人大臣の女)に給賜うた桜井屯倉というのは、のちの河内国、河内郡桜井郷(いまの枚岡市六万寺町の辺と思われ、字桜井の名がのこっている)に設定され、その耕作に従事する田部を賜わったことも記されている」と述べられた。
さらに今井氏は、桜井田部連を『旧事記』国造本紀によって、穴門国造と同祖族とし、おそらくは凡河内国造族とされた。そして『書紀』応神天皇二年三月三日条に「次妃、桜井田部連男鉏(おさひ)の妹糸媛、隼總別(はやぶさわけ)皇子を生む」(『記』では「桜井田部連の祖、嶋垂根の女、糸井媛を娶り、生みませる御子、速總別命」)に注目され、桜井田部連は皇妃を出すほどの豪族であったとされた。
『枚岡市史』第三巻にも「なかでも、次妃香香有媛(許勢男人大臣の女)に給賜うた桜井屯倉というのは、河内国河内郡桜井郷(いまの枚岡市六万寺町の辺と思われ、字桜井の遺名もある)に設定され、田部をも給賜うたというのは、国々にある田部の中から採って、その御田を佃らしめるためにいま給賜う屯倉に附属せしめられたという意であり、二年九月条によると、その桜井にあった屯倉の田部の首長が桜井田部連であり、この連は屯倉の税をも主掌したとしている」とする。
この説も今井説もともに「桜井郷」を、枚岡市(東大阪市)六万寺付近の字桜井にあて、それを桜井屯倉の所在地としているのである。
また坂本太郎等校注『日本書紀』(下)の頭注では桜井屯倉を「和名抄に河内国河内郡桜井郷。今の大阪府枚岡市池島の辺か」と記している。前二説と同一の論拠であろう。