桜井屯倉を東大阪の枚岡市(東大阪市)とする説をみてきたが、これに対し富田林市桜井とする説も有力である。この説は藤沢一夫氏(「河内新堂・烏含寺跡の調査」『大阪府文化財調査報告』第一二輯)や岸俊男氏(「県犬養宿祢橘三千代をめぐる臆説」『古代学論叢』)の説である。藤沢一夫氏の説からみていこう。
『書紀』崇峻天皇即位前紀に
河内国司言さく「餌香川原に斬(ころ)されたる人あり。計(かぞ)ふるに将(まさ)に数百なり。頭身(かしらむくろ)既に爛(ただ)れて姓字(かばねな)知り難し。但、衣の色を以て身を収め取る。爰(ここ)に桜井田部連膽渟(いぬ)が養へる犬あり。身頭を嚙(く)い続けて側に伏して固く守る。己が主を収めしめて、乃(すなわ)ち起ちて行く」と。
とある。この史料の「斬されたる人」とは、排仏派物部氏と崇仏派蘇我氏の争いの結果、殺された人のことであり、「餌香川原」は石川の川原と考えられる。応神陵を恵我藻伏崗陵、允恭陵を恵我長野北陵ということからみて、道明寺東方の石川とするのが妥当である。桜井田部連の遺骸がそこに放置されていたというのは、彼の本貫がその近傍のためである。
桜井田部連はまた『書紀』安閑天皇二年九月三日条に「桜井田部連・県犬養連・難波吉士等に詔して、屯倉の税を主掌らしむ」とあり、屯倉耕作者田部を率いた桜井屯倉の管掌者といえる。
桜井屯倉は従来は安閑二年の設置といわれてきたが、『書紀』応神天皇二年条に「次妃、桜井田部連男鉏の妹糸媛、隼總別皇子を生む」とあるように、もっと古い時代の設置の可能性がある。
桜井田部連の出自は『旧事記』は穴門国造と同祖とするが、定かではない。桜井田部は桜井と田部が複合した姓であるから、桜井についてみると、『古事記』孝元天皇条に建内宿祢の後裔氏族に、蘇賀石河宿祢を記し、さらに「蘇我臣○中略高向臣○中略桜井臣○中略等の祖なり」とある。通説では桜井氏の本貫を奈良県桜井とするが、錦部郡高向(河内長野市)を本貫とする高向氏と同祖であるから、富田林市桜井をその本貫地とみることもできる(475)。そうすれば桜井田部氏の本貫地も同一場所と考えられよう。こうした証明の上にたって、藤沢氏は桜井屯倉を富田林市桜井に求められた。
藤沢説に賛成し、さらに傍証を加えられたのが岸俊男氏である。『書紀』の桜井屯倉の分注に「一本に云はく、茅渟山屯倉を加へ貺ふなり」とあるのに注目された。茅渟山屯倉の位置は明らかではないが、『日本霊異記』に和泉国泉郡血渟山寺・泉国泉郡部内珍努上山寺があることからみて、茅渟山屯倉は和泉国和泉郡内にあると推定しうる。桜井屯倉の位置を富田林市桜井に比定する方が、茅渟山屯倉と地理的に近接することになり、「加へ貺ふ」の字義も生きてくると岸氏は述べられた。