また『書紀』の安閑天皇元年七月の条につぎのような記事がある。屯倉の地を設けるため、勅使を遣わして良田を選ばせた。その勅使が大河内直味張(おおしこうちのあたいあじはり)に肥沃な雌雉田をたてまつれと命じたところ、味張は惜しいのであざむき、この田は日照りに水を得ることが困難で、また水の豊富なところは浸水しやすいため、労力をついやすことが多く、収穫が少ない、といった。一方、摂津の三島にいた県主の飯粒(いいほ)は御野・下御野・上桑原・竹村の地四〇町を朝廷に献上し、郡司に任ぜられたけれども、味張については郡司に任用しないと宣旨がくだった。味張はそれを知り、まえに勅使にうそをいったことを後悔し、大伴大連金村に罪を謝し、河内の郡ごとに钁丁を春秋に各五〇〇人ずつ天皇にたてまつることを誓った。三島の竹村の屯倉に河内の県の百姓を田部(たべ)として使役することはこうして始まった。
以上が『書紀』の記載の要点で、郡司は大化改新のとき任用されるもので、土地面積の単位の町も大化改新で実施される班田制度において用いられるものであるから、大化より約一〇〇年まえの安閑朝に郡司や面積の単位の町がみられるわけでなく、それらは『書紀』編者の潤色である。ただ右の事件がおこなわれた場所がどこにあたるかについてこれまでに出された説をみておくと、雌雉田に関して河村秀根の『書紀集解』に、『河内志』によって石川郡の喜志(富田林市)か、渋川郡の岸田堂(東大阪市)にあたるとし、さらに岸田堂村に長楽寺があって岸田寺というと記す。『中河内郡誌』も雌雉田を岸田堂かと推定している。
飯田武郷は『日本書紀通釈』に、(1)雌雉田を河内の地名とする『書紀集解』の説はもっともなことである。(2)しかし『書紀』の訓に「きじた」とあるのによって喜志や岸田堂にあてることはおぼつかない。(3)雌雉田は、本居宣長の『古事記伝』に「メキキシタ」と読んでいるのにしたがうべきであり、雌雉とあるのをたんに「キシ」と読んではならない、(4)『古事記伝』では、屯倉を設けるための味張の領地を選びたてまつらせようとしたのであるから、雌雉田は膏腴(こうゆ)肥沃の田のことである、と普通名詞に解しているけれど、『書紀』にみえる味張の言葉に「この田は旱天に水を得がたい云々」といっているところからみれば、雌雉田は「一処の田の名」(固有名詞)である、と述べる。
右の『書紀』の記載では、勅使が「今、汝は宣しく膏腴の雌雉田を奉るべし」といったと記され、形容詞の「膏腴」という語が上に冠せられているから、その下の「雌雉田」を『古事記伝』のように肥沃な土地と解釈すると同じ意味の語が重複するから、雌雉田は『日本書紀通釈』のように固有名詞であると考える方がよい。しかし、固有名詞であっても、たんに「きじた」とあるだけで、これを喜志や岸田堂にあてるのは『日本書紀通釈』のいうように無理であるとしなければならない。