いわゆる倭の五王ごろの王朝は、応神・仁徳・履中の三天皇の時代が最盛期であった。つぎの反正天皇の時代はまだ無難であったが、五世紀中葉の允恭天皇のころから皇室の内紛と動揺がつづいた。
允恭天皇の死後、木梨軽太子(きなしのかるのたいし)と穴穂皇子(あなほのみこ)が皇位を争い、穴穂皇子が勝利して安康天皇となった。安康天皇は仁徳天皇の子の大日下王を殺したが、逆に大日下王の子の目弱(まよわ)王に暗殺された。目弱王は安康の弟の大長谷(おおはつせ)皇子に滅ぼされ、大長谷皇子はさらに履中天皇の子の市辺忍歯(いちべのおしは)王を倒して、皇位につき雄略天皇となった。雄略の没後、子の清寧天皇が後をついだが、清寧には子がなく皇統が絶えそうになった。そこで市辺忍歯王の二人の皇子が、難をさけて播磨国に隠れていたのを迎え、弟の方を顕宗天皇とした。顕宗に子がなかったので、兄を皇位につけ仁賢天皇とした。仁賢には多くの皇子があり、その一人の小長谷若雀命(おはつせわかさぎのみこと)が後をつぎ、武烈天皇となった(476)。
皇位継承のみにしぼってみても以上のように内紛が絶えなかった。これに朝廷を構成する豪族たちの勢力争いが加わるから、まさに大和朝廷の危機ともいえる状況であった。この危機の最大の原因は、天皇家とその最有力の協力者葛城(かずらぎ)氏との反目である。両者ともに共倒れのように勢力が衰微した。葛城氏にとって代わったのは平群(へぐり)氏で、これもまた天皇家と対立した。このような動揺の中で力を伸ばしてきたのが大伴氏である。大伴氏は富田林市に大伴の地名を残すように、本地域とは深い関連を持つ氏族である。
大伴氏の祖は、高皇産霊神(たかみむすひのかみ)の五世孫の天忍日(あめのおしひ)命とされる(『新撰姓氏録』)。天忍日命は天孫降臨のさいに陪従警固にあたり、その曽孫の日臣命はいわゆる神武東征に多くの功をたてた。また日本武尊の征討にも大伴武日連が活躍している。これらはすべて伝説ではあるが、大伴氏は古くより軍事面で大和朝廷に仕えたことは確かである。
大伴武日の子が武以で、武以の子が室屋であるが、大伴室屋のころからは『書紀』の記載も信憑性が増してくる。大和朝廷に仕えて職務を分担する各グループは伴とよばれるが、大伴は最も有力な伴、つまり伴の総元締である。雄略朝には平群真鳥(へぐりのまとり)が大臣となり、大伴室屋と物部目が大連となった。臣の姓を称する有力豪族の中で最も勢力をもつ氏が大臣で、連の姓を名のる有力豪族中の最優勢の氏が大連となることはいうまでもなく、大臣と大連は天皇を補佐して政治を行なう最高の官職である。
雄略天皇二三年八月、天皇は重病におちいったとき、室屋らに遺詔して星川皇子の反逆をおさえ、白髪皇太子をたすけて天下を治めるように命じた。このときの室屋は「民部は広大にして国にみつ」とある。