大伴室屋の子は談(かたり)で、談の子が金村である。仁賢天皇が崩じると、大臣の平群真鳥が権力をふるった。小泊瀬稚鷦鷯(おはつせわかさざき)太子(『記』では小長谷若雀命)は履中天皇系と雄略天皇系の血統をついでいた。太子は大連の物部麁鹿火(あらかい)の娘の影媛(かげひめ)を妻としようとして、真鳥の子の鮪(しび)と争ったために平群父子をうらんだ。大伴金村は太子を自宅に迎え、兵を集めて計略をめぐらし、鮪を乃楽(なら)山(奈良市北郊)に滅ぼし、ついで一一月真鳥の家を囲み火を放って滅ぼした。以上の『書紀』の記載になんらかの史実が含まれるとすれば、太子側と平群側とが有力豪族の物部氏をだきこもうとしたのかもしれない(直木孝次郎「大伴金村」『大和奈良朝』)。
大伴金村は政敵平群氏を倒し、太子は泊瀬列城(はつせなみき)宮(桜井市初瀬の長谷寺の南方。『古事記伝』は出雲村北方の御屋敷を跡とする・477)に即位し武烈天皇となった。武烈は『書紀』に在位八年とするが、確かではない。しかも『書紀』は天皇が妊婦の腹を割って胎児を見たという類の数多くの暴虐記事をのせている。しかしこれらの暴虐記事は実は中国史書の引きうつしで事実ではない。始祖の応神天皇にはじまり、租税を免じ善政をしいた仁徳天皇につながる王朝が、武烈天皇で断絶したという歴史を、『書紀』編者が中国風の歴史観で描いたためであるとされる(直木孝次郎「前掲論文」)。
武烈の崩後、後嗣がないので、大伴金村は群臣とはかり、倭彦(やまとひこ)王(仲哀の五世孫)を丹波国桑田郡(京都府亀岡市)より迎えようとした。しかし王が逃亡したので、再度群臣と議して男大迹(おおど)王(応神の五世孫)を越前(福井県)より迎え、河内国樟葉(枚方市)に即位させ(継体天皇)、自らは大連となった。
継体六年(五一二)、金村は任那の四県(上哆唎(おこしたり)・下哆唎(あるしたり)・娑陀(さだ)・牟婁(むろ))を百済に与えた。当時の百済は日本に従順をよそおいつつ任那を蚕食しようとしており、任那は金村の処置を怒り、日本に反感を抱いて新羅に接近した。新羅は法興王の治世で国勢が伸び、日本に反抗の態度をとり、任那をうかがっていた。金村は任那の現地にいる穂積臣押山(ほづみのおみおしやま)とともに百済から賄賂をうけたとの非難が高まった(のち金村はこの割譲によって失脚するにいたる)。新羅が任那を侵しはじめたので、朝廷は近江臣毛野(おうみのおみのけぬ)を遣わして討とうとしたが、筑紫の国造磐井は新羅と通謀して妨げた。磐井が北九州一帯の地方君主といえるほどの勢力をもっていたことは、彼が葬られているといわれる岩戸山古墳の巨大さから知られる。これ以前の四・五世紀における朝鮮半島出撃には、九州の人びとが兵役にかり出され、つねに負担が重かったから、磐井はそうした不満を結集し、政権の不安定に乗じて乱をおこしたことなどが注目されている。
継体天皇の崩後に、朝廷では安閑・宣化朝と欽明朝との両統対立という事態が生じたことが推定されている。さらに最近ではこの両統分立を朝鮮との外交問題と結びつけ、深刻な内乱があったのであると解する議論がみられた。『記』『紀』の分析によって、右のような王朝の交替と分立説や内乱説に対し修正的意見が出されているが、しかし皇統の動揺とみることには異論がなく、またそのような動揺が平群・巨勢(こせ)・大伴・物部氏らの豪族や葛城・蘇我氏らの外戚豪族の権勢を伸長させたとみられている。