崇峻天皇の即位をめぐり、蘇我馬子が政敵の物部守屋を討とうとしたとき、大伴咋(嚙)(くい)は阿倍・平群・坂本・春日の諸氏とともに河内国志紀郡から馳せつけて馬子に味方し、物部氏を討滅した(『書紀』崇峻天皇即位前紀)。大伴糠手の娘の小手子(こてこ)が崇峻天皇の妃に召されており、大伴氏の地位や勢力は蘇我氏におよばないが、大伴氏はやや勢いを挽回したとみられる。大伴咋は狭手彦の弟の阿彼布古の子にあたるらしいことが『三代実録』貞観三年(八六一)八月一九日条に「阿彼布古は父を承けて大部連公となり(中略)代を歴て尊顕なり」とみえるところなどから推定されており、崇峻天皇四年(五九一)一一月、任那再興のための出兵に大将軍となり、推古天皇九年・一〇年(六〇一、六〇二)には任那救援のため高麗に遣わされ、蘇我馬子大臣のもとで、蘇我蝦夷(えみし)・坂本糠手(ぬかて)・阿倍鳥子とともに四大夫の一人にかぞえられ(『書紀』推古天皇一八年一〇月条)、冠位の第一級の大徳を与えられている(『続紀』天平感宝元年閏五月二九日条)。
馬子の守屋攻撃のさい、大伴毘羅夫(ひらふ)が馬子の身辺を護衛し、推古天皇崩後の皇位継承者をめぐる論議が沸騰したとき、大伴鯨は蘇我蝦夷の意見―田村皇子(のち舒明天皇)を皇位につけるべきである―にしたがって応答している(『書紀』)。これらは大伴氏が蘇我氏側に好意をよせていることを物語る。
しかし皇極天皇三年(六四四)六月、蘇我蝦夷・入鹿の権勢が威力を高めているとき、大伴長徳(咋の子。あるいは馬飼ともいう)が百合花を朝廷に献じており、これは長徳が蘇我氏に見切りをつけて中大兄皇子に通じたことのあらわれかといわれる(田中卓「壬申の乱と大伴氏」『歴史教育』二―五)。
また大伴狭手彦の子に糠手子があり、『書紀』敏達天皇一二年(五八三)条の日羅関係記事に大伴村などの地名とともにでてくる。日羅はかつて大伴金村大連に随伴して百済に渡った火葦北国造阿利斯登(ひのあしきたのくにのみやつこありしと)の子であり、その後、百済に仕えていた。ところが、欽明二三年(五六二)任那日本府が新羅に滅ぼされ、朝鮮経営の拠点を失った日本は、政情回復について日羅の意見を聞こうとして召し還した。日羅が吉備の児島屯倉に着いたとき、朝廷から使者として遣わされたのは大伴糠手子連ら三人であった。日羅は、任那再興はまず百済国のいだいている野望をくだくことにある、と答えたが、そのため日羅は百済の臣の徳爾に殺されたのである。
日羅が一二月晦日に難波の館で殺されたあと、敏達天皇は物部贄子(にえこ)大連と大伴糠手子連に詔して、難波の小郡(おごおり)の西の丘の前に日羅を葬らしめ、その妻子と水手(かこ)らを河内南部の石川におらしめようとした。そのとき大伴糠手子連は議(はか)って、「一つの処にあつめておくと、恐らくは事変をおこすであろう」といい、日羅の妻子を石川の百済村に、水手らを石川の大伴村に、徳爾らを捕縛し下百済の河田村においた、と記される(478)。
これらの集落地については、考古学的にもその存在がほぼ確認されており、妻子がおかれた百済村(『和名抄』に河内国錦部郡百済郷とみえる)は、百済系渡来氏族との関係も推定される。大伴糠手子は『書紀』崇峻天皇元年三月条に糠手連と記され、娘の小手子を崇峻の妃とし、小手子は蜂子皇子と錦代皇女を生んだと記される。『聖徳太子平氏伝雑勘文』に引く『上宮記』には大伴奴加之古連とみえ、その娘の古氐古郎女は長谷部王(泊瀬部皇子・崇峻天皇)の妃となり、波知乃古王と錦代王を生んだとする。また小手子は『書紀』の「或本」によれば、崇峻暗殺事件の原因となったとも記される(崇峻五年一一月三日条所引)。