推古天皇の即位

632 ~ 634

敏達朝(五七二―五八五)から推古朝(五九三―六二八)にかけての時期に政治体制が整備されたさい、河内地方が重要な政治舞台となり、また富田林市の位置する石川郡に敏達・用明・推古天皇陵や聖徳太子墓が営まれた。敏達朝の政治で注目される一つは皇室体制の整備で、たとえば、后妃の私有部民を后妃の名前をつけて刑部・春日部・藤原部などとよぶのは六世紀前半ごろまでのことであり、あとは絶えてそれ以後はしだいに私部(きさいべ)という名称に統一されてゆき、『書紀』の敏達天皇六年(五七七)二月一日条に「詔して日祀部(ひまつりべ)・私部を置く」と記され、私部への改称は后妃の地位が制度的・経済的に確立したことの反映であると解されている。敏達天皇の皇后は豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)(のち推古天皇)であったが、天皇の持つ複数の后のうちの一人がとくに大后(おおきさき)とよばれ、皇后として地位が定まってくるのは推古朝の前後であるといわれる(岸俊男「光明立后の史的意義」『日本古代政治史研究』)。このように敏達朝から推古朝にかけてのころに皇后の地位が制度的・経済的に安定したことが女帝出現の一つの基礎となっている(女帝の最初は推古天皇)。

 推古天皇のとき皇太子として政治に重きをなした厩戸皇子(うまやべのおうじ)の父用明天皇は欽明天皇と蘇我稲目の娘堅塩媛(きたしひめ)との間に生まれ、用明朝には蘇我馬子(稲目の子)が実力をふるった。用明天皇は在位二年(五八七)で崩じ、皇位を誰に継がせるかについて馬子は泊瀬部皇子(のち崇峻天皇)を推薦し、物部守屋は穴穂部皇子を支持して争った。推された両皇子はともに欽明天皇の皇子で、その母は蘇我小姉君(馬子の妹)であるが、守屋は穴穂部皇子と親しい関係にあった。馬子は守屋を河内の渋河(八尾市)に攻め、厩戸皇子らの皇族や紀・巨勢らの豪族も馬子がわにしたがった結果、物部氏は滅び、馬子は大和と河内を制圧し、蘇我氏に対抗する豪族は姿を消した。

 泊瀬部皇子が即位し(崇峻天皇)、倉梯(くらはし)宮(桜井市倉橋)を皇居とし、馬子はひきつづいて大臣の地位につき、その娘の河上娘が天皇の妃であったが、天皇は馬子の専横を不快に思い、即位五年目のある日、献上された猪をゆびさし「この猪の首を切るように、いつか不快な男を切ってやろう」といい、これを聞いた馬子は腹心の東漢駒(やまとのあやのこま)(渡来人)に命じて天皇を殺させ、即日、倉梯の陵に葬った。渡来人の手を使ったのは、非難を緩和させることをねらったわけで、豪族による天皇弑逆や即日埋葬は前例のないことで、蘇我氏の強盛を象徴している。

 崇峻天皇の死は重大な事件であっただけに、あとの皇位継承者の選定はむつかしい問題であったが、結局、豊御食炊屋姫が選ばれた。男性の候補者として用明天皇の甥の押坂彦人大兄皇子・竹田皇子や、子の厩戸皇子らがいたのに、これらを推さないで炊屋姫を選んだのは、敏達・用明・崇峻天皇の世代の間における兄弟相承を主張したからであり、かつ炊屋姫は馬子の姪にあたる関係にあるところからみて、馬子が采配をふるったと考えられる。皇室側としては、男帝ならば蘇我氏からの風あたりが強いことを考慮してこれを避け、炊屋姫ならば馬子との血縁関係から摩擦が少なくてすむことに期待したのであろう。