炊屋姫は豊浦宮(奈良県高市郡明日香村豊浦)に即位した。これが推古天皇である。皇居は甘橿丘の東北のふもとに位置を占め、(479)にみるように、飛鳥川をへだてて雷丘と向かい合っていた。推古天皇の即位の翌年(五九三)、厩戸皇子が皇太子に立てられたと『書紀』には記されている。しかし、厩戸皇子の立太子は推古女帝が愛していた竹田皇子の死後であったに違いないといわれている(直木孝次郎「厩戸皇子の立太子について」『聖徳太子研究』四)。竹田皇子は、敏達天皇と炊屋姫との間に生まれ、推古女帝が即位してから数年のちに死んだらしい。『書紀』は竹田皇子の死没の記事を欠いているが、のち推古天皇が崩御(六二八年)するときの遺詔に竹田皇子の墓へ合葬してほしいといっているのは、いかに竹田皇子を愛していたかを示している。したがって竹田皇子の生存中にこれをさし置いて厩戸皇子を皇太子に立てることは困難であったに違いないし、皇子を立太子させるのにその天皇の即位元年に立太子を行なうことは当時はまだ例がないから、厩戸皇子の立太子を推古元年とする『書紀』の記載は疑わしい。厩戸皇子が偉大であったので、『書紀』編者は厩戸皇子の立太子を古くさかのぼらせ、推古元年からとしたといわれる。
厩戸皇子は敏達三年(五七四)生まれであり、推古天皇即位より数年のちに皇太子になったとすると、それは太子二五~二八歳ごろのことである。推古九年(六〇一)に宮殿を営んでおり、翌一〇年厩戸皇子の弟の来目皇子が新羅征討将軍に任ぜられて九州へ西下したのは厩戸皇子の采配にもとづくと考えられるから、厩戸皇子は推古九年には皇太子となっていたであろう。
聖徳太子の名は著名であるが、生前の諱は厩戸であり、聖徳は死後に呼ばれた尊称である。厩戸はウマヤドと読まれているが、他戸親王(光仁天皇の子)をオサベ親王と呼ぶように、戸の字は「べ」と読む方がよいと考えられる。氏の名のなかの戸の字を「べ」と読むことは、飛鳥戸(あすかべ)・史戸(ふひとべ)・宍戸(ししべ)などの例によって知られ、かつ戸の字のつく氏の名は一〇数例が知られ、いずれも渡来人である。厩戸の場合もウマヤベと読み、おそらく厩戸皇子の名は渡来人の厩戸という氏に養育された関係から諱を厩戸皇子と呼んだと考えられる。『書紀』が編集されたころ(完成奏上は養老四年、七二〇)、すでに厩戸という諱がつけられた由来が忘れられていて、これをウマヤドと読んだために、母(穴穂部間人皇女)が宮中をめぐっていて馬官(馬事関係の役所)の馬屋の戸の付近で皇子を産んだというような降誕説話を作ったのであろう。
厩戸皇子の政治的地位を摂政とよぶ習慣があるけれども、正しくは皇太子がその法的地位の名で、その職務は天皇の政治をたすけること(輔政)である。『書紀』に「厩戸豊聰耳皇子(とよさとみみのみこ)を立てて皇太子となし(A)、仍(よ)りて政を録摂(ふさねつかさど)らしめ、万機を以て悉くに委ねたまふ(B)」と記され(推古元年四月己卯一〇日条)、ほかにも「豊御食炊屋姫天皇の世に於いて、位は東宮に居り(C)、万機を総摂(ふさねはか)りて、天皇の事を行なふ(D)」と記されるが(用明元年正月壬子朔条)、厩戸皇子の地位は皇太子(A)・東宮(C)であると考えるべきで、職掌に関する(B)・(D)の部分は過当な表現である。というのは『書紀』を見ると、推古天皇は詔を出して政治を行なっており、すべてを厩戸皇太子にまかせたのでなく、『書紀』自身の記載が厩戸皇太子の万機をまかされて摂政であるかのような記載ぶりを否定しており、『上宮聖徳法王帝説』や『聖徳太子伝補闕記』は厩戸皇子の地位を皇太子と記し、その属性は輔政であったと記しているからである。