聖徳太子の事績はもっと多岐にわたるが、一般の歴史書にも詳しいので省略したい。太子は推古三〇年(六二二)斑鳩宮に薨じたが、その墓所は磯長の里に求められた。太子の墓は叡福寺北側に隣接する円墳で、切石造の横穴式石室をもち、玄室内の正面に太子の母・穴穂部間人皇后の棺、手前右に太子の棺、左に太子妃・膳大娘(かしわでのおおいらつめ)の棺が安置され、棺台に格狭間の彫りがみられる(480)。
叡福寺(俗称、上の太子)は寺伝によると、推古天皇が聖徳太子の廟所として僧坊十院を置き、叡福寺と名づけ、方六町の地を賜わり、聖武天皇は神亀元年(七二四)伽藍を建てたという。右の時代までさかのぼる伽藍遺構や古瓦などが発見されていないが、しかし、聖徳太子墓の守護と追福のために寺が建てられたとしていることが注目される。寺は天正二年(一五七四)織田信長の兵火で焼け、慶長八年(一六〇三)豊臣秀頼が再建した聖霊院(太子堂)が現存最古の建物である。寺宝として絹本着色文殊渡海図や、高屋連枚人墓誌(石造)、石造五輪塔(伝源頼朝塔)、隔夜堂石造阿弥陀如来坐像、聖霊殿などがみられる。
太子墓のある磯長山にのぼって南方の磯長谷―王陵の谷―を眺めると、孝徳天皇陵・推古天皇陵・用明天皇陵・聖徳太子墓・敏達天皇陵があたかも梅の花びらが開いた形に位置を占めている。そのことから、これらの天皇陵は梅鉢陵とよばれ、孝徳天皇陵が『枕草子』に鶯の陵とよばれているのは、五つの天皇陵が梅鉢陵とよばれることと関係があるのかもしれない。磯長谷の王陵は西方から東に向かって造営されたが、その東南端に小野妹子の墓があり、科長(しなが)神社(式内社)に隣接する。この神社前から石段をのぼった頂上の背に小さい塚が築かれ、現在は原形をかなり損じているようにみえるが、東西一九メートル、南北一一メートル、高さ三メートル余の楕円形を呈し、墓の上に雑木が茂っている(481)。
妹子は近江国(滋賀県)滋賀郡小野の豪族から出ており(生没年不詳)、推古一五年(六〇七)遣隋使として渡海し、翌一六年、隋の答礼使裴世清(はいせいせい)を案内して中国から帰国し、同年、裴世清を送って再び隋にゆき、このとき高向玄理・僧旻・南淵請安らの留学生(僧)が同行した。妹子は『隋書』に蘇因高と記される。因高は妹子の名を中国流に呼んだものであるが、小野が蘇と呼びかえられたわけについてつぎのようにいわれる。中国の氏の名は一字であるから、それにならって小野の野を省略して小だけを残し、小の発音に近いもので中国に例の多い氏名として蘇という氏名が選ばれたか、あるいは当時の権力者である蘇我氏の名を借用したのであろう。