蘇我石川宿祢

638 ~ 640

蘇我氏の祖は石河宿祢であるといわれるが、それが勢力をもっていた石川(河)地方については、河内の石川郡地方(富田林市の地域は石川郡の一部をうけついでいる)であるか、大和の飛鳥の石川付近(橿原市)であるのかに関し意見が分かれている。

 石川宿祢は『書紀』の応神天皇三年条につぎのように記される。百済王となった辰斯王が大和朝廷に礼を欠いたため、朝廷は石川宿祢を紀角宿祢・羽田矢代宿祢・木菟(つく)宿祢らとともに百済に遣わした。石川宿祢らは、百済王の無礼を責め、そのため百済側は辰斯王を殺して罪を謝し、石川宿祢ら一行は阿花を百済王として立て、帰還した、と。

 応神天皇三年の絶対年代は、『書紀』が西暦二七二年にあてているけれども、『書紀』の応神天皇の巻あたりに記される年代は、讖緯説の影響をうけ、実際の年代よりも干支二運(一二〇年)だけ古くあてられており、このゆがみを訂正する仮の方法として、『書紀』にいう年代に一二〇年を加えることがおこなわれている。したがって応神天皇三年は西暦三九二年ごろとなるわけである。

 『古事記』の孝元天皇の段に建内宿祢の子の蘇賀石河宿祢がみえ、「蘇我臣・川辺臣・田中臣・高向臣・小治田臣・桜井臣・岸田臣らの祖なり」と記される。孝元天皇は第八代の天皇であるが、いつごろの天皇かは不明である。また『古事記』は『書紀』にくらべると、その記述が無年紀的である。ところで、『日本古代人名辞典』は『書紀』の応神三年条に記される石川宿祢について、「蘇我石川系図では、武内宿祢の子、蘇我満智の父で、蘇我石河とある。蘇我・川辺・田中・高向・沼田・桜井・岸田・田口・箭口・久米・御炊等の祖であるという」と記し、蘇我石河宿祢と石川宿祢を同一人としている。

 蘇我氏の祖については、また『三代実録』元慶元年(八七七)一二月二七日条に石川朝臣木村と箭口朝臣岑業がそれぞれ石川・箭口を改めて宗岳朝臣の姓を賜わったことを記す記事の中にみえる。このときの石川朝臣木村の言によれば、石川朝臣の始祖は大臣武内宿祢の子である宗我石川であり、宗我石川は河内国石川の別業(別荘)で生まれたので石川をもって名となし、さらに宗我(大和国高市郡)の大家を賜わって居となしたによって姓宗我宿祢を賜わり、天武天皇一三年に姓朝臣を賜わったという。蘇我氏には、五世紀後半ごろに満智があらわれ、三蔵を管掌したという伝えがあり、その後、韓子・稲目・馬子・蝦夷・入鹿などがあらわれ、歴史上重要な役割を演じつつ、六四五年、大化改新のとき滅ぼされた。そして傍系の連子の系統がのちに石川朝臣となって長く存続したのである(482)。

482 蘇我氏系図