蘇我氏の祖の石川宿祢をめぐり、蘇我氏の本貫について、(1)大和の曽我地域説(門脇禎二氏ら)、(2)河内の石川流域説(福山敏男・黛弘道・田村圓澄氏ら)、(3)大和の葛城説(志田淳一氏ら)がみられる。
(1)大和の曽我地域説の根拠は、古代臣姓豪族の本拠は、その大部分が氏名と合致することにある。河内の石川と蘇我氏が関連するのは、後世に蘇我氏の分派がこの地方に移住したと考えるもので、史料を『紀氏家牒』『三代実録』(前掲条)などに求める。門脇禎二氏は (2)河内石川説を批判し、(a)古代氏族の本拠がそう容易に本拠を移しえるかどうか疑わしい、(b)伝承的人物であるが、武内宿祢を祖とする後裔氏族の許勢・平群・葛城氏がいずれも大和出身の有力氏族であることからみて、蘇我氏の場合も移住説は一考が必要である、(C)蘇我氏が河内の石川流域を本貫とするならば、大和南部は空白になるが、どの豪族が大和南部にいたのかが問題となる、(d)蘇我氏の諸氏族はいつ分岐したか明らかでないが、蘇我氏諸氏族が大和南部に散在している、などの考えを述べた(『飛鳥』『大化改新論序説』)。
蘇我氏の本居地を(2)河内石川地域とする説に福山敏男氏があり、『書紀』の敏達天皇一三年(五八四)の是歳の条に蘇我馬子について「仏殿を宅〔A〕の東方に経営し、弥勒の石像を安置し、三尼を屈請して大会の設斎(をがみ)す………馬子宿祢は亦、石川の宅〔B〕にして、仏殿を修治(つく)る。仏法の初めは茲(ここ)より作れり」と記されることに関し、(ア)馬子は「島の大臣」といわれたからAの宅は島(奈良県高市郡明日香村島之庄)の宅であり、(イ)Bの石川の宅は「亦」の字が加えてあるからAの島の宅とは別で、石川は河内のそれである。(ウ)馬子の祖先は蘇我石川宿祢といわれたというから石川は馬子の系統の蘇我氏の本拠であろう、と述べ、富田林市東条の龍泉寺の創建に論及し、早くから蘇我馬子の創立と信じられていたと記述している(「豊浦寺の創立」『日本建築史研究』)。
また黛弘道氏や田村圓澄氏は、河内石川本貫説を唱え、六世紀前半の稲目のとき、大和の曽我地域に移貫したとする。田村氏は明確な論拠をあげていないが、黛氏は従来の『紀氏家牒』『三代実録』と異なる視点から主張した。すなわち「孝元記」にみえる武内宿祢の七男のうち蘇我氏の祖とされる蘇我石河宿祢だけが姓と名の両方が地名と関係をもつという特異な存在である。またこの姓名における二つの地名の関係を説明するものとして『三代実録』(元慶元年条)の記事があったのではあるまいかと考えられ、『三代実録』からも蘇我氏が石川にゆかりのあることが知られる。またさきに記した『書紀』応神天皇三年是歳の条にもただ石川宿祢とだけ記される。なお後世、蘇我氏が石川氏と改称しているのも、その本貫が河内の石川であったことを物語る、と(黛弘道「ソガおよびソガ氏に関する一考察」『上代文学論叢』・田村圓澄『聖徳太子』)。
(3)葛城地方説 葛城氏と蘇我氏との関係についてはしばしば指摘されているが、志田淳一氏はつぎのように説く。蘇我氏は葛城氏の流れを汲(く)み、稲目の時代に葛城の地から曽我地方に移貫したのであり、その根拠として、『書紀』推古天皇三二年一〇月条や皇極天皇元年条および『聖徳太子伝暦』にみえる蘇我葛木臣という記載などをあげることができる、と(『古代氏の性格と伝承』)。
右に見てきたように、蘇我氏の本貫地に関する史料が少なく、また史料の信憑性の検討も残されている。さらに(2)石川流域説、(3)葛城説を採用する場合は、門脇氏から出された批判にどのように答えるかが問題となる。たとえば(2)河内石川説は稲目のとき大和の曽我地方に移ったとするが、移貫することが容易にできるのか、どうか、またなぜ移貫するのかということも説明を必要とする。
これら本貫を一地域に求めようとする解釈に対して、蘇我氏=双系集団という考えを示して、異なった視点から解釈を加えたのは平野邦雄氏である。蘇我氏と大和や河内との関係について平野氏はいう。「蘇我氏は、その祖に『蘇我石河』という人物が登場します。この人物は、石川年足の墓誌には、『宗我石川宿祢命』とかかれ、『三代実録』によりますと、河内国の〝石川別業〟に生れたので、『石川』をもって名とし、のち〝宗我大家〟を賜わって居としたので、『宗我宿祢』と称するようになったとあります。大和の『蘇我』は、今の橿原市あたりの地名とみてよいのですが、この蘇我氏のばあいも、大和と河内にそれぞれ双系の集団があったとみられる可能性はつよいと思います」(「いわゆる『古代王朝論』について」『国史学』一〇三)。
平野氏は、豪族がA・Bの二つの地域に関係をもつ場合は、AからBに移ったとか、BからAへ移ったというのでなく、Aに父系の集団がおり、Bに母系の集団がいたと考える方がよいとする意見である。注目すべき仮説といえよう。