『豊浦寺縁起』の敏達天皇の壬寅(即位一一)年(五八二)の条に「壬寅年、大后大々王は池辺皇子と二柱同心して、牟久原殿を桜井に始めて造り、桜井道場とした」と記される。このことに関し『書紀』には記すところがなく、また牟久原寺殿は蘇我稲目の家にあたるから、『豊浦寺縁起』の前半はおかしいことになり、記事全体も信じられなくなって、桜井寺の創立年代が明らかにならない。
『豊浦寺縁起』には、翌癸卯年の条に「爾時(このとき)大臣(稲目)は……歓喜し、桜井道場に請せて住ましむ。次に甲賀臣が百済より持ち渡り来る石の弥勒菩薩像あり。三柱の尼らに家口を持たせて供養礼拝せしむ」と記され、善信尼・禅蔵尼・恵善尼の三人が桜井道場に住んだことになっているけれども、『書紀』には、さきにも引用したように「(馬子)は……仏殿を宅の東の方に経営りて、弥勒の石像を安置せまつる。三の尼を屈請せ大会の設斎す……馬子宿祢、亦、石川宅にして仏殿を修治る。仏法の初め、茲より作れり」とみえ、桜井道場は記されないで、宅の東方の仏殿と記される。馬子は「島の大臣」と呼ばれたから、ここの宅は島の宅であるらしく、この地が桜井と呼ばれとは考えられないから、この『書紀』の記事も史実を伝えるものでなかろう。『書紀』に「馬子宿祢、亦、石川の宅において仏殿を修治る」と記され、「亦」の字が加えられているところをみると、前文の「宅の東の方」と「石川の宅」とは別であるらしく(この二つの宅の仏殿の記事は『書紀』の欽明一三年一〇月条の小墾田の家と向原の家との二つに似ている)、石川は河内のそれであると考えられ、馬子の祖先は蘇我石川宿祢と呼ばれたというから、石川は馬子の系統の蘇我氏の本拠地であろう。
河内国石川郡(富田林市)東条の龍泉寺については、承和一一年(八四四)一一月の宗我氏の氏人らの解文(『春日神社文書』四七二号)に「件の龍泉寺は、是れ……大臣宗我宿祢、小治田宮御宇の世、丙戌(推古三四年)冬一一月、天王<ママ>の為に……建立する所なり」と記される。また『元興寺新縁起』にも推古天皇四年の条にかけて「是の年、島の大臣は私に龍泉寺を石川の神名傍山に起こし、禅行の院と為す」と記されるように、この寺は古くから馬子の創立と信じられていたらしい。これらによれば『書紀』の「石川の宅の仏殿」はこの龍泉寺の縁起(『春日神社文書』)によって、便宜この年の条に併記したものと考えられる。大和国高市郡(橿原市畝傍町)の石川に石川精舎跡と称するものがあるが、それは地名の同一から後世に付会されたものである。以上は福山敏男氏の考察に依拠して記した(『前掲書』)。ママ>