『大和志』に「石川廃精舎は石川村にあり、古址に今本明寺、及び石浮図屠、高さ丈余許なり」と記す。奈良県高市郡役所編『奈良県高市郡志料』は「本明寺附石川精舎址」の項に「白橿村大字石川字南垣内に在り、現今浄土宗鎮西派に属する尼寺にして知恩院末たり。境内面積百七十八坪あり、本堂は桁行三間・梁行三間、本尊釈迦如来は木坐像にして、長二尺五寸、作者不詳なり」と述べ、つづいて『大和志』の前引部分を示したのち、「此の石浮屠は里俗馬子塚と称すれとも徴証なし、又一説に大永三年二月十九日越智氏の兵細川氏の兵と此の地に戦ひ、敵兵三十二人を打取り、其の追善供養の為め之を建立すと云へり。当寺地は石川精舎の故址と伝ふるものにして即ち蘇我馬子宿祢の石川宅の一部なること已に歴然たり」と述べている。
さらに同書は『書紀』敏達天皇一三・一四年条にみえる蘇我馬子の仏法興隆を記し、「按するに大字石川の名称は馬子宿祢の石川宅より伝へたるものにして、蓋し往昔に在りては附近一帯の山野悉く邸宅の地なりしも後寺地となり、何れの世まて存在せしか、今尚ほ田圃の字に八講田、山林の字に花嚴寺・大楽寺・感道寺等残れるも又精舎に関係あるにや」と記す。
つぎに石川精舎・大野丘北塔を包括してこれを元興寺地なりとした喜田貞吉氏の論文「元興寺考証」(『歴史地理』一九―一・二)を紹介し、「法興寺、元興寺、豊浦寺、葛城寺は各々別箇の寺にして、豊浦寺・葛城寺はともに豊浦地方に在り、又法興寺は飛鳥地方に在りてもと鳥仏師の作丈六繍仏を本尊とし、而して元興寺は和田に在りて石川精舎・大野丘塔等を拡張したるの別名にして、もと鳥仏師の作金銅仏を安置せり、其の後、元興寺は奈良に遷り、石川精舎の仏像たりし弥勒石像は東金堂に安置し、丈六金銅像は飛鳥法興寺に遷されて以て現今の所謂飛鳥大仏となれり」と述べている。