蘇我馬子は推古天皇三四年(六二六)五月没し、『書紀』によると桃原の墓に葬ったと記される。桃原の地名は『書紀』の雄略天皇七年の是歳の条に、天皇が大伴大連室屋に詔し、東漢直掬(やまとのあやのあたいつか)をして新漢陶部高貴(いまきのあやのすゑつくりこうき)・鞍部堅貴・画部因斯羅我(ゑかきいんしらが)・錦部定安那錦(にしごりぢやうあんなこむ)・訳語卯安那(をさめうあんな)らを、上桃原・下桃原・真神原(まかみのはら)の三カ所に遷し居らしめたということでみえている。真神原は『書紀』の崇峻天皇元年(五八八)三月条に「飛鳥の真神原」と記されるから疑問はない。
ところが『書紀』にいう三カ所のうち桃原について、のちに蘇我馬子を葬ったと記されるので問題となる。すなわち、延宝六年(一六七八)仏子釈了意の撰にかかる『聖徳太子伝暦備講』(一名『聖徳太子伝暦鼓吹』)に、馬子が桃原に葬られたという『書紀』の記載をもとにして桃原墓に関し「桃原墓トハ河内国石川ノ東条ナリ。太子ノ御廟ノ東南ノ方ナリ」と註している。
これについて池田源太氏はつぎのように考察している。聖徳太子の磯長墓の東南の東条に、小野妹子の墓と伝えられるものがあり、馬子の墓の伝えは別に太子の磯長墓に近く太子町太子向小路というところにある。あるいは、『聖徳太子伝暦備講』の筆者釈了意が河内の磯長あたりの人に問いただしたとき、妹子を馬子と聞き誤ったとも考えられる。それにしても、河内の東条あたりでも桃原という地名は伝わっていないことは事実であり、大和の飛鳥あたりにも、桃原という地名は失われているので、桃原の地名は今その所を失っている、と(「近つ飛鳥八釣宮」『明日香村史』上巻)。
また『太子町誌』は「この向小路の多層塔が言い伝えの通り蘇我馬子の墓と考えるにはすべての面に大変無理があろう」と述べ「彼の供養塔程度のものではなかったかという考えも一応、肯首し得るものがある」と記すにとどめている。