大化前代の官制としての人制に倉人がある(直木孝次郎「人制の研究」『日本古代国家の構造』)。和田萃氏は大和や河内の古道沿いに倉人の本貫が集中的に分布していることを指摘した。
(1)横大路……池上椋人・神前倉人・尾張倉人
(2)下ツ道……大椋人
(3)水越峠越え……日置倉人
(4)竹内街道……尾張倉人(河内国安宿郡尾張郷。ただし、神武即位前紀に古く葛城地方を高尾張邑とよんだことがみえており、そちらかもしれない)・春日椋人(旧山田村春日)・白鳥椋人(河内国古市郡、白鳥陵がある)・細川椋人(河内国古市郡。『河内国西琳寺縁起』によれば、大宝三年閏四月一五日に大官大寺で受戒し、公験を受けた僧弁教は河内国古市郡細川原の椋人広麿の戸口であった)・川原椋人(河内国丹比郡、旧丹南郡丹比村に川原城の地名がある)
(5)長尾街道……次田倉人(河内国安宿郡、鋤田寺がある。ただし『石清水文書』に「渋川郡六条次田里」とあるのでそちらかもしれない)
(6)東高野街道……河内蔵人(河内国河内郡)・高安倉人(河内国高安郡)
なお、倉人にはこの他に、葦屋倉人・財椋人・秦倉人がある。秦倉人の本貫は山背国愛宕郡・葛野郡であるが、河内国丹比郡黒山郷に秦羸姓田主(『大日本古文書』一三―二二〇)・秦虫足(同上四―二五九)、高安郡に秦船人(同上四―五〇)の例がみえる。
このような倉人の分布は、横大路・竹内街道を始めとする大和・河内の古道に沿って蘇我倉・当麻倉・春日倉に代表されるような稲貢納物の収納・保管を目的とする政治的クラが存在し、そこに新しく創設された人制のひとつとして倉人が上番勤務した結果、おのずと固定したものである。
そして、この地域に政治的クラが設置されたのは、それが古代では大和と河内を結ぶ最も主要なルートであったことや、竹内街道に沿った河内地方に渡来人が集中して居住したことと関係があるだろう。
また、これらの政治的クラや倉人の分布地域は、蘇我氏の勢力範囲と重なっている。人制が六世紀に蘇我氏の領導下に組織された制度であり、欽明朝に白猪屯倉や児島屯倉へ中央から田令を派遣し、定籍された田部を管掌するという新しい屯倉支配を推進したのが蘇我氏であることを考慮すると、このことも蘇我氏によって県のミヤケの新しい管理方式が導入された結果と推測することができる(和田萃「横大路とその周辺」『古代文化』二六―六)。