敏達天皇陵と推定されている陵は南河内郡太子町の葉室にある。この陵は天皇陵の前方後円墳として最後のものであり、磯長谷古墳群の最も西に位置し、皇室関係の陵墓はここから東の方へだんだんと設けられたことや、磯長谷古墳群のうちこの陵が唯一の前方後円墳であることなどが注目されている。規模は全長一一三メートル、前方部の幅六七メートル、後円部径五八メートル、墳丘は二段に築かれ、周囲に空濠がめぐらされ、環濠の外堤で円筒埴輪の破片が拾得されている。
このような陵が富田林市の近いところにあり、それが敏達天皇陵と推定されているが、この天皇の皇居の百済大井宮の位置に関し、(1)富田林市彼方説と、(2)奈良県広瀬郡百済説とがある。これについては後述するとして、敏達朝と本地域の関連を示す別の事件についてみておこう。
その事件とはすでにふれた日羅の事件(「その後の大伴氏」参照)である。火葦北国造阿利斯登の子で、百済に仕えた日羅を敏達は召還し、国政に参画させた。百済は日羅によって自国が不利になることを恐れ、これを暗殺させたのである。日羅の妻子と水手(水夫・日羅の従者)は石川に置かれることとなった。たんに石川とあるのみで、具体的な場所は明らかではない。しかし「一処に聚(つど)へ居かば、恐(おそ)るらくは其の変(はかりこと)を生(な)さむ」という理由で、「妻子を以ては、石川百済村に居き、水手等を石川大伴村に居く」こととした。さらに暗殺の下手人の徳爾らを「下百済河田村に置く」とある。
坂本太郎等校注『日本書紀』(下)の頭注によれば、石川百済村は『和名抄』に錦部郡百済郷があるが現在地未詳、富田林市南部と河内長野市北部にわたる地域か、とある。また同注には、石川大伴村は富田林市北大伴・南大伴、下百済河田村については『地名辞書』の錦部郡廿山村甲田(富田林市甲田)説を採用している。
ところで百済大井宮の位置について、佐伯有義校注『日本書紀』に「百済大井宮河内錦部郡百済郷あり、河内志に同郡大井村あれば同村なるべし。今南河内郡彼方村に属す」と記し、坂本太郎等校注『日本書紀』は百済大井について「河内志・通証等は和名抄の河内国錦部郡百済郷で今の大阪府河内長野市太井の地とするが、地名辞書は大和国広瀬郡の百済(奈良県北葛城郡広陵町百済)とする」と述べている。
百済大井宮=河内説の例をあげると、池辺弥氏の『和名類聚抄郷名考証』は河内国錦部郡百済(郷)のところで「百済大井」をあげ「敏達紀元、四」と記している。田村圓澄氏は「敏達天皇は、はじめ河内の百済大井(大阪府富田林市)に宮を営んだ。古市(大阪府羽曳野市)の南方にあたり、蘇我氏の本貫である石川にほど近く、百済系帰化人による錦織部が置かれていたところである」と記している(『聖徳太子』)。田村氏はつづけて「しかし数年後に、大和の三輪山の近くの磐余の訳語田幸玉宮(桜井市戒重)に移ったことは、その後の敏達天皇と蘇我氏との関係、また仏教との交渉について暗示的といえよう。三輪山は大神と称し、三輪山自体が神体であることからも知られるように、古くから厚い崇敬を集め、威光のただならぬ神であった。そして敏達天皇は、仏教的雰囲気につつまれた河内の百済大井を去って、神威のただよう三輪山の近くに宮を遷したのである」といい、敏達天皇の最初の皇居の百済大井宮が富田林市にあったとかさねて記している。