仏教の公伝と私伝

656 ~ 658

欽明天皇七年(五四六)、百済の聖明王が朝廷に仏像と経典を献じたが、天皇は固有の神祇信仰への配慮から仏教摂取について中立的立場をとり、蘇我稲目がその仏像などをもらいうけて礼拝したと『元興寺伽藍縁起並流記資財帳』に伝えられる。また『書紀』にもほぼ同じ話が欽明一三年(五五二)のこととして記される。

 しかし仏教公伝よりもまえに、中国の梁(りょう)からきた司馬達等(しめだちと)が継体天皇一六年(五二二)、大和の坂田原(奈良県高市郡)で草堂を建て、仏像を安置し礼拝していたことが『扶桑略記(ふそうりゃくき)』(欽明一三年条)にみえ、つぎのように記される。「日吉山薬恒法師法華験記に云ふ。延暦寺僧禅岑記に云ふ。第廿七代継体天皇即位十六年壬寅、大唐の漢人案部村主の司馬達等は、此の年春二月入朝し、即ち草堂を大和国高市郡坂田原に結び、本尊を安置し、帰依礼拝す。世を挙げて皆云ふ。是れ大唐の神なり」と。

 「延暦寺僧禅岑記」という古書の性質のくわしいことは明らかでないが、『扶桑略記』はほかにも古書を引用しているところがあり、また「延暦寺僧禅岑記」に、初めて仏像を見た日本人の受けとりかたについて「世を挙げて皆云ふ。是れ大唐の神なり」と記しており、いかにも初めて仏教に接したときの様相を述べたものとしてふさわしい。もし、この「禅岑記」に信用できる古伝を含むものならば、司馬達等にみられる渡来人による日本への仏教移植は、いわゆる欽明朝の百済国から仏教が公的に伝えられたことよりも一〇数年古くさかのぼるものとなる。

 仏教の中国への伝来は、後漢の明帝の永平一〇年(六七)であるが、これは主権者の記録にみえる仏教伝来年代で、これ以前に仏教流入の形跡は絶無でないとされる。朝鮮半島への仏教伝播については、まず高句麗の小獣林王二年(三七二)に伝わり、ついで百済へは枕流王元年(三八四)に、新羅へは訥祇(とつぎ)王(四一七―四五八在位)のときと考えられている。ところで中国人や朝鮮半島の人の日本渡来は古くからみられ、とくに四世紀後半にいちじるしく、そうすると僧や仏教信奉者の日本渡来は、四世紀後半以後ならばありうるわけで、また渡来人は河内を経て大和に流入し、あるいは途中の河内に止住したから、大和における司馬達等の仏像礼拝におかしいことはない。

 考古学的遺物に現れた仏教伝来についてみておくと、四仏四獣鏡(鈕のまわりに四獣を配し、獣と獣との間に四群の仏像をあらわす)が大和(奈良県)上総(千葉県)信濃(長野県)備中(岡山県)などの古墳から発見されている。この鏡の所持者らが鏡背の仏像をどの程度に理解していたかは問題であるが、この鏡の伝来を五世紀というのが正しいならば、その仏の図像も仏教伝来を物語る遺物であり、司馬達等のような信奉者の渡来が六世紀前半にあったとして不自然でない。

 司馬達等は僧として記されていないところから考えると、在俗の信者であったらしい。このような在俗の信奉者による仏教伝播は、欽明朝の仏教公伝よりも前であり、欽明天皇も仏像や経典を蘇我稲目にさずけ、朝廷がすぐ仏像を受容していないわけで、仏教の民間への伝播は朝廷への公伝に先立つことが注意される。