河内の石川郡地域を本居とした百済系の渡来人の例に石川錦織首許呂斯がおり、『書紀』仁徳天皇四一年三月条につぎのように記される。日本の朝廷は紀角宿祢を百済に遣わし、国郡の境界を区切り、くわしく土地の産物を記録させた。このとき百済の王の一族である酒君(さけのきみ)が日本側に対して礼儀を欠く行為に出た(日本側が産物を調査したことに反抗したのであろう)。紀角宿祢はすでに『書紀』の応神天皇三年の条にみえる。酒君の世系は明らかでないが、『新撰姓氏録』に右京諸蕃の刑部や和泉国諸蕃の百済公・六人部連の諸氏は百済の酒君より出ていると記される。
紀角宿祢は酒君の無礼について百済王(近肖古王)を叱り責め、近肖古王は恐縮し、酒君を鉄の鎖でしばり、葛城襲津彦にさずけて日本に送った。ところが酒君は石川錦織首許呂斯の家に逃げ隠れ、許呂斯をあざむいて「天皇(仁徳)がすでに私の罪を許して下さった。だから私は貴方のところで生活させてもらいたい」といった。このときからかなりの年月が経過し、天皇はとうとう酒君の罪を許した。
石川錦織首の石川は富田林を流れる川であり、のち郡名に石川郡がみられ、錦織はまた富田林の地名として残っており、石川錦織首は富田林市域に住んだ氏族と考えられる。かつ、百済の酒君が石川錦織首の家に逃げ隠れたのは、石川錦織首の氏族が百済の王族の酒君となんらかの関係をもっていたからであるが、それは、石川錦織首が百済系の渡来人であったからといわれる。
許呂斯は『住吉大社神代記』(古代六三)に住吉大社が河内にもっていた神領の山預(やまあずかり)石川錦織許呂志として記される。すなわち用明天皇のとき、神戸二〇烟と田二町二一〇歩が住吉大神に寄進されたが、このとき住吉大神は「我が田我が山に潔浄水を錦織・石川・針魚(はりを)川より引漑(ひきかよ)はせて、榊の黒木を以て吾を斎祀(いはひまつ)れ。覬覦(みかどかたむ)けむとする謀あらむ時には、斯くの如くに斎(いは)ひまつれ」と詔宣(みことのり)した。また山預の石川錦織許呂志が「仕へ奉る山名は所所に在り」(管理している山が各地にあるの意味)と記し、「兄(せの)山・天野・横山・錦織・石川・葛城・音穂・高向(たかむく)・華林・二上(ふたかみ)山等と号白(まお)す(葛城山は元の高尾張なり)」と書いている。なお『住吉大社神代記』には、横山について「横なはれる中山あるに依りて故に横山と云ひ、横なはれる嶺ある故に横嶺と云ふ。嶺の東の方頭(かた)に杖立(つえたち)二処あり、石川錦織許呂志・忍海刀自等、水別(みずわけ)を争ひ論(あげつ)らふ」と記し、許呂志の名がみえる。
石川錦織氏がどのような特色をもつ氏であるかは『書紀』から知ることができないが、『住吉大社神代記』では、許呂志が兄山など一〇の山を管理したかのように記され、また横山付近での水論をとりあつかったと記される。『住吉大社神代記』にあげられている兄山・天野・横山・錦織・葛城・高向・二上山などは山であり、石川も川の名でなく、旧石川村(河南町)付近をさす。
『住吉大社神代記』にみえる山などについて田中卓氏の注釈を参照しておく(「住吉大社神代記の研究」『住吉大社神代記』)。山預は山を守るを職とする官で、山部・山守部の類に似る。『万葉集』に「山守」(四〇一・一二六一)「山主」(四〇二)などがみえる。兄山は大化二年改新詔に畿内の南限にあてるとして記され(『書紀』)、紀伊国(和歌山県)伊都郡背山村にあり、『万葉集』で勢能山として出てくる(三五・一一九三・一二〇八・一六七六)。横山に関し、田中氏は「『丹生大明神告門』にみえる横峯に似たれど、『住吉大社神代記』四二四行目を参照すれば和泉志和泉郡の横山なるべし。なほ河内志錦部郡にも横山あり」と注している。音穂は『住吉大社神代記』四〇一行目に音穂野とみえる。高向は『河内志』錦部郡にみえる高向である。華林は未詳である。二上山は大和国葛下郡にあり、『万葉集』にはこの山を眺める歌が(一六五など)多い。