複姓の石川錦織氏

662 ~ 663

石川錦織氏の名は石川氏と錦織氏の二つの氏名から成っており、このように複数の氏の名が単一の氏の名を構成している場合にそれを複姓という(直木孝次郎「複姓の研究」『日本古代国家の構造』)。複姓の例はかなり多く、富田林市の地域と関係をもつ氏族のなかから例をあげると、蘇我倉山田石川連の氏名は蘇我・倉・山田・石川の四つから成っており、氏の名として最も長いものであろう。富田林の近くにいた氏族の例をあげると、中臣村山連は狭山郷(南河内郡狭山町)を本籍地とし、この氏から奈良時代に首麻呂が出て、平城京の写経所に勤務した(井上薫『奈良朝仏教史の研究』)。富田林と関係がなくなるけれど、もう一つだけあげると葛城稚犬養氏があり、この氏から出た網田は皇極天皇四年六月一二日、佐伯連子麻呂・海犬養連勝麻呂らとともに飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を暗殺することに活躍した。葛城氏は仁徳天皇の皇后磐之媛の父である襲津彦を出した豪族で五世紀にさかえた。稚は分家の意味である。犬養は朝廷の屯倉などの警備に使われた犬を飼育することなどをつかさどる氏であり、犬養氏の分家のうちなんらかの事情で葛城氏と隷属関係を結んだ氏が複姓の葛城稚犬養と名乗るにいたったのであろう。石川錦織の複姓は、錦織氏が石川氏に隷属関係を結んだところから生じたものであろう。