『書紀』の雄略天皇二年七月条にみえる石河股合首の祖の石河楯も富田林市域にいた百済系の渡来人と考えられている。すなわち、雄略天皇が百済の池津媛(百済が雄略天皇にたてまつった女)を召そうとしたとき、池津媛が石河楯(石河股合首の祖)と通じていたので、天皇は怒り、大伴室屋大連に命じ、来目部をして夫婦(石河楯と池津媛)の四支(両方の手足)を木に張りつけ、仮庪(桟敷)の上に置かせ、火で焼き殺したという。『書紀』は注釈して石河楯について「舊本」(「一本」「或本」と同じく稿本をさすといわれる)に、石河股合首の祖である、と記している。
石河楯は『和州五郡神社神名帳大略注解』所引の旧記につぎのように書かれている。安康天皇のとき、武内宿祢の曽孫の楯(石川俣合の祖)が甘樫岡を開墾し、大いに田地を営み耕種させたが、その農人が田の中で牛を剝ぎ肉を食べたところ、苗が蝗損をうけて膠に変じたので、石河楯は神代の故事を思い、御歳神に祈り、水口祭をおこなうと、苗の葉が再び茂り、秋に実を結んだ。そこで世間では楯田成す小治田といい、その後、神殿を水田の上に建て、大地主神を斎き祀り、小治田神社と号し、これが今の豊浦神社である。雄略天皇のときに至り、石河楯は事情があって遠国に退けられ、その家地と田戸を蘇我韓古に賜わった。また石河楯が小田中に建てた神社を田中神社(御歳神社)といい、陸田に建てた神社を大歳神社という。
坂本太郎等校注『日本書紀』(上)には、(1)「旧記」にみえる苗の蝗損の説話は『古語拾遺』にのっている大地主神の営田説話に似ており、おそらく『古語拾遺』から作られたもので、石河楯を武内宿祢の曽孫とするのは信じ難い。(2)「旧記」に雄略朝のこととして石河楯が事に坐し遠国に退いたあと、その家地と田戸を蘇我韓子に賜わったと伝えるが、地域的にみて、石川(河)氏が蘇我氏と同族という伝承の生れる可能性が強いとしても、実際は石河股合首は石川錦織首(『書紀』仁徳天皇四一年条)と同じく河内の石川郡を本居とする百済系の氏でないか、との考えを述べている。
ところで、『書紀』には、雄略天皇二年七月条の本文のつぎに割注で『百済新撰』を引いて『書紀』本文記載の事件を説明しており、それによると己巳年に百済で蓋鹵王(四五五―四七五、在位)が立ち、天皇は阿礼奴跪(あれとく)を遣わして女郎(えはしと)(身分の高い女子をさす古代朝鮮語であろうという)をたてまつらせた。百済は、慕尼夫人(むにはしかし)を荘飾らしめて適稽女郎(ちゃくけいえはしと)といい、天皇にたてまつらせた、と。
また『書紀』の雄略天皇五年四月条に右の事件のあとのことが記され、百済の加須利君は池津媛が雄略天皇によって焼き殺されたと聞き、昔は女人をたてまつり采女(うねめ)としたが、すでに礼を欠き、わが国(百済)の名を失ったので、今より後はわが国(百済)は女人を貢することを中止するにいたった、と。