聖徳太子と蘇我馬子がならび立った推古朝の政治は、天皇家と蘇我氏の対立と矛盾を根底に含みながらも、表面的には推古天皇を中心として協力して、国家体制を整備していった時期でもあった。この勢力均衡が破れるのは、推古三〇年(六二二)の太子の死によってである。その後まもなく推古三四年(六二六)には蘇我馬子も没したが、子の蝦夷が大臣となった。推古三六年(六二八)天皇が崩じると、田村皇子と山背大兄王の二人の有力な皇位継承者が対立した(494)。蝦夷は田村皇子を支持し、これを即位させた。舒明天皇である。だが舒明は即位後一三年、四〇歳で死去し、再び皇位継承問題が持ちあがる。舒明の皇子の古人皇子と中大兄皇子、加えて山背大兄王も健在である。三者いずれも甲乙つけがたく、決着がつかないので、舒明の皇后宝皇女を立てて、時期を待とうとした。いわばつぎの天皇を待つ中継ぎの天皇であった。
宝皇女は即位し、皇極天皇となるが、この皇極朝に父の蝦夷とともに権力を握ったのが、入鹿である。入鹿は皇極二年(六四三)、聖徳太子の子の山背大兄王を倒した。いったん王は生駒山に逃れたものの、結局は斑鳩寺に戻って自殺し、聖徳太子の血筋はとだえた。入鹿は飛鳥の心臓部ともいうべき甘樫丘(あまがしのおか)に、父の蝦夷とともに家を造り、上の宮門(みかど)、谷(はざま)の宮門と呼ばせるなど、天皇家をしのぐ勢力を保持した。こうした状況の中で豪族たちも、私有地の拡大と私民の獲得につとめていた。『書紀』大化元年一一月一九日条には「其れ臣連等・伴造・国造、各己が民を置きて、情(こころ)の恣(ほしきまま)に駈使(つか)ふ。又国県の山海・林野・池田を割(さきと)りて、己が財(たから)として、争ひ戦ふことやまず」とある。豪族たちのこうした状況は、強者による弱者の併合、ひいては農民たちにも大きな影響をもたらし、深刻な国内危機をかもし出していた。
そのころ東アジアの国際情勢も、新たな緊張関係をむかえていた。すでに六一八年(推古二六)隋は唐にとって代わられ、唐は新羅を友好国として支援し、朝鮮半島の統一に乗り出していた。滅亡の危機におちいった百済や高句麗は日本の助力を是非とも必要としていた。
こうした内外の危機は、早急な国内体制の改革を迫るものであった。とくに蘇我勢力とあまり関係のない豪族の中臣(藤原)鎌子(鎌足)や、蘇我氏系の古人皇子の対抗者中大兄皇子にとっては、そうであった。ここに隋・唐から帰国した留学生たちの協力を得て、蘇我氏を打倒し、新政権を樹立する大化改新の幕が切って落とされた。