乙巳の変と改新詔

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皇極四年乙巳(六四五)六月一二日、飛鳥板蓋(葺)(あすかいたぶき)宮で高句麗・百済・新羅三国の使者の調をすすめる儀式があるとして、大臣の入鹿を宮中に召した。入鹿は猜疑心が強く、剣をつけていたが、鎌足は剣を入鹿からうまく取り上げた。中大兄は入鹿が殿舎内の座席についたのを見て、警固の司に命じて宮の諸門を閉じさせた。暗殺の用意は整えられ、さすがの入鹿も身一つではどうすることもできなかった。入鹿暗殺後、直ちに中大兄は法興寺に布陣、飛鳥川をへだて甘橿丘にたてこもる蝦夷と対した。蝦夷らのもとには漢直ら恩顧の氏族が結集している。中大兄は巨勢徳太(こせのとこた)を派遣し、帰順をすすめた。蘇我氏同族の高向氏らも動揺をはじめ、蝦夷は勝利しがたいのを悟って、家に火を放ち自殺した。中大兄らのクーデターは成功した。

495 発掘調査後の伝飛鳥板蓋宮跡(明日香村)

 皇極天皇は中大兄に位を譲ろうとしたが、中大兄は辞退し、軽皇子(かるのみこ)を推挙した。皇太子古人皇子は身の危険を察知し、僧となって吉野へ逃れた。六月一四日、軽皇子は即位し、孝徳天皇となった。その日のうちに、皇太子に中大兄皇子、左大臣に阿倍臣内麻呂(倉梯麻呂)、右大臣に蘇我倉山田臣石川麻呂、内臣に中臣連鎌子(藤原鎌足)、国博士に沙門旻(みん)法師(僧旻(みん)・日文(にちもん))と高向史玄理(たかむくのふひとくろまろ)などの新政府首脳部が決定された。阿倍氏や蘇我氏は旧来からの大豪族であり、いわば時流に逆らわない人びとの信望をになっていた。国博士の二人は改新の理念をになう知識人で、実権は中大兄と鎌足に握られていた。六月一九日、初めて元号を用いることとし、「大化元年」と定めた。

 大化元年(六四五)八月、改新詔の前提ともいえる五つの法令が出された。九月、吉野へ逃れた古人皇子の謀反計画が発覚し、中大兄は直ちに出兵、これを倒した。一二月、都を飛鳥板蓋宮から難波長柄豊碕宮(ながらとよさきのみや)に移した。(実際の遷都ではなく、遷都の方針を表明したのである。)

 翌二年正月一日、賀正の礼を終えて、改新詔が出された。その内容は四つの詔よりなっていた。

 (1)天皇の子代(こしろ)の民と屯倉、中央・地方豪族の私有民(部民)と私有地(田荘(たどころ))を廃し、公地公民制とする。収公の代償に大夫(まえつぎみ)(上流貴族で議政官)に食封(じきふ)を、他の者には布帛(ふはく)を与える。

 (2)都には条坊制をしき、坊令・坊長を定める。地方行政区画を定め、畿内・国(国司)・郡(郡司)・里(里長)などを設ける。軍事や交通制度を整える。

 (3)収公した田地に班田収授法を施行し、班給と田租納入台帳として戸籍を造る。さらに他の賦役を徴するため計帳を作製する。

 (4)従来の賦役をやめて、新税制とする。

 以上が改新詔の要点であった。まさに画期的な詔であって、これが実施されれば、整然とした中央集権国家が成立することになる。したがって従来、さまざまな見解が改新詔をめぐって提出されている(野村忠夫『研究史大化改新』)。当初は改新詔が用語や用字上、後世の修飾がどの程度なされたのかが問題であった。しかし昨今は改新詔を含めて、この時期に新しい政治方針が出されたのかどうかが問題となっている。にわかに当否が定めがたいので、ここでは従来説かれてきたように、七世紀中葉に律令国家建設へ第一歩を踏み出したとみておきたい。