孝徳朝の推移

669 ~ 671

改新詔後、次第に公地公民制に基づく中央集権国家の形成に努力が払われた。大化二年三月、中大兄は自分の私有の部民と屯倉を、天皇にたてまつった。八月、再度豪族の私有部民を収公すると命じ、あらたに官職と位階を諸豪族に与えると通告した。諸豪族たちはこれで朝廷での地位と身分を保証されたから、安心して新政に協力できたにちがいない。またこの年、身分の上下によって墓を規制する薄葬令や、さまざまな風俗矯正令が出された。大化三年には冠位を一三階とし、四年には東北地方の蝦夷の反乱にそなえて磐舟の柵(き)をつくり、五年には冠位を一九階として、新政は一段落した。

 ところで大化五年三月、左大臣阿倍倉梯麻呂が死去した。阿倍氏はいわば蘇我氏とは無関係の諸氏族の代表格としてこの地位にあり、孝徳天皇の妃に娘の小足媛(おたらしひめ)を出していた。右大臣蘇我倉山田石川麻呂は蘇我氏系であるが、蘇我氏の本家と不和の関係にあり、なお娘の乳娘(ちのいらつめ)を孝徳の妃としていた。倉梯麻呂と石川麻呂は車の両輪であったが、倉梯麻呂の死後七日、悲運が石川麻呂をおそった。弟の蘇我日向(ひむか)が「石川麻呂は、中大兄の暗殺を計画している」と密告したのである。中大兄は孝徳にこれを報じ、孝徳は「天皇の御前で申開きする」という石川麻呂を許さず、兵を派遣しその宅を囲んだ。石川麻呂は二人の子とともに難波の宅を捨て、飛鳥の山田寺に入って自殺した(後述)。

 四月、左大臣に巨勢徳太、右大臣に大伴長徳が任命されたが、前任者とは力量に差があった。

 大化六年(六五〇)二月、穴門(長門(ながと))国から白雉(はくち)が献上され、元号を改めて白雉とした。この改元の儀式を『書紀』は詳細に記すが、それは石川麻呂の事件で動揺した人心を静めるためといわれる(北山茂夫『天武朝』)。

 白雉三年九月、難波長柄豊碕宮が完成し、一二月孝徳は宮に移った。完成途中の宮にはなんども立寄っているが、孝徳は大化二年以降、子代離宮(こしろのかりみや)、蝦蟇行宮(かわずのかりみや)、小郡宮、有間温湯(ありまのゆ)、武庫行宮(むこのかりみや)、味経宮(あじふのみや)、大郡宮(おおごおりのみや)と転々としている。

 白雉四年六月、国博士の旻が死去した。大化新政府の構成員で残るのは、皇太子の中大兄と内臣の藤原鎌足、国博士の高向玄理だけになった。そしてこの年、中大兄は前天皇皇極、孝徳の皇后間人(はしひと)や皇族、官人をひきいて、飛鳥川辺行宮へ移動した。一人とりのこされた孝徳は激怒し、退位して山碕(京都府大山崎町)へ移ろうとしたが、果たせなかった。孝徳は翌年一〇月、悲憤の中で難波宮で崩じ、一二月大坂磯長陵(太子町山田)に葬られた。国博士高向玄理は、すでに白雉五年二月、遣唐使となり出発していた。玄理はそのまま唐で客死するが、いづれにせよ中大兄と対立した孝徳の周囲には、すでに頼るに足る有力者はなかったといえる。藤原鎌足は法律家型の冷静な立法者・企画者であり(横田健一「大化改新と藤原鎌足」『史林』四二―三)、中大兄と一体であったにちがいないからである。

496 難波宮跡