蘇我倉山田石川麻呂

671 ~ 673

孝徳天皇の右腕でもあり、改新政府の実力者でもあった蘇我倉山田石川麻呂の事績についてみておこう。

 蘇我倉山田石川麻呂という人名については、どこまでを氏としどこからを名とするのか、説が分れる。一般には蘇我が氏の名、倉山田石川麻呂が名とするが、そうではなさそうである。蘇我+倉+山田を氏の名とする説(高群逸枝『母系制の研究』)、蘇我+倉+山田+石川を氏の名とする説(直木孝次郎『日本古代国家の構造』)がある。山田や石川は地名であるから、「蘇我倉」という氏の名が成立していたのであろう。蘇我氏は朝廷の財政に関与し、倉の管理をつかさどっていたと考えられるから、蘇我氏のうちで朝廷の倉に関する一族が、蘇我倉氏を名のったのであろうといわれる(直木孝次郎『前掲書』)。あるいは本来、朝廷の倉を管掌していた倉氏と蘇我氏の間に血縁関係を生じ、蘇我倉氏が誕生しとする説もある(黛弘道「大和国家の財政」『日本経済史大系』1 古代)。

 蘇我倉氏はともかくも蘇我氏の一族で、山田石川麻呂あるいは石川麻呂、またはたんに麻呂と考えられる人物が孝徳朝の右大臣であった。つぎに彼の系譜を考えると、『公卿補任』には蘇我連大臣を「雄正子臣之子、右大臣石河麻呂之弟也」とする。しかし雄正にあたる『書紀』の雄当、つまり舒明即位前紀の「蘇我倉麻呂臣」を石川麻呂に当てる説もある(坂本太郎等校注『日本書紀』下)。『公卿補任』を信頼すれば、(482)のようになるが、そうでなければ系譜は不明である。舒明即位前紀の雄当は、推古天皇没後の皇位継承争いについて「現在すぐには判断できない」と述べて、蘇我蝦夷との対決をさけている。これに反し山背大兄王を支持したのが、同じ蘇我の一族の蘇我境部臣摩理勢(さかいべのおみまりせ)であった。摩理勢は馬子の弟つまり蝦夷の叔父であったが、この一件によって蝦夷に粛正されてしまったのである。蘇我一族の内紛はすでにあった。雄当が石川麻呂であってもなくても、彼は一族の内紛を知っていた。

 石川麻呂の名が『書紀』にはじめてみえるのは、皇極三年(六四四)正月のことである。蘇我蝦夷・入鹿打倒の計画を進める中臣鎌子(藤原鎌足)は、中大兄に「大きなる事を謀るには、輔有(たすけあ)るには如(し)かず。請(こ)ふ、蘇我倉山田麻呂の長女(えひめ)を納(い)れて妃として、婚姻の眤(むつび)を成さむ。然して後に陳(の)べ説きて、與(とも)に事を計らむと欲(おも)ふ」と説いた。中大兄はすぐに賛成し、使を出した。ところが中大兄との約束の当日に、長女は蘇我日向(石川麻呂の弟)に奪われ、妹の造媛(みやつこひめ)(遠智娘(おちのいらつめ)・持統天皇の母)が中大兄の妃となった。

497 伝馬子墓・伝石川麻呂石棺の位置(太子町)

 こうして中大兄・鎌足の陣営に属した彼は、クーデターの当日、三韓の上表文を読む役につく。上表文の朗読と同時に、入鹿を暗殺することになっていた。ところが読み進んでも、刺客はあらわれない。彼はふるえはじめた。入鹿はそれを怪しんで「何故か掉(ふる)ひ戦(わなな)く」と問いつめる。「天皇に近づける恐(かしこ)みに、不覚にして汗流(い)づる」と答える。そのとき中大兄が「咄嗟(やあ)」と声をかけ、刺客とともに入鹿にきりかかった。

 孝徳即位の日、彼は右大臣となり、改新政府の中枢に位置した。娘の乳娘を孝徳の妃とし、得意の絶頂にあったといえよう。しかしその四年後、大化四年四月冠位制が改められたが、左右大臣はなお古い冠をつけたという。あるいは急激な改新の政策についていけない古さの表現であったのかも知れない。翌年には悲運に遭遇することになった。

498 蘇我倉山田石川麻呂ゆかりの山田寺(桜井市)