石川麻呂と茅渟道

673 ~ 675

大化五年(六四九)三月二四日、蘇我日向(石川麻呂の弟)が中大兄に密告し、「僕(やつかれ)が異母兄(ことはらのいろね)麻呂、皇太子の海濱に遊びませるを伺(うかが)ひて、害(そこな)はむとす。反(そむ)きまつらんこと、其れ久しからず」(中大兄の海遊びの時に暗殺する計画だ)といった。中大兄は即刻孝徳天皇に報告し、孝徳は大伴狛らを派遣して石川麻呂を詰問した。石川麻呂は天皇と対面して弁明すると述べたが、孝徳は許さず再び使者を派遣した。石川麻呂はまた同じ答をする。孝徳は今度は兵を派遣し、石川麻呂の宅を包囲しようとした。彼は完全に罪人扱いであった。

 彼は宅を捨てて逃走する。「大臣、乃(すなわ)ち二の子、法師(ほうし)と赤猪更の名は秦とを将(い)て、茅渟道(ちぬのみち)より逃げて倭国(やまとのくに)の境に向(ゆ)く。大臣の長子の興志(こごし)、是より先に倭に在りて山田の家に在るを謂ふ、其の寺を営造(つく)る」と『書紀』は記す。興志は彼を迎えて、ともに戦おうとするが、彼は許さない。一族の者をなだめ、仏殿の扉を開いて「生生世世(よよ)に、君王(きみ)を怨みじ」と誓い、自殺した。殉死する妻子は八名であった。

 同日、朝廷の軍勢が大伴狛と蘇我日向を将として、難波宮を出発した。「将軍大伴連ら、黒山に到るに及びて、土師連身(はじのむらじむ)・采女臣使主麻呂(うねめのおみおみまろ)、山田寺より馳せ来りて告げて曰く『蘇我大臣、既に三(みたり)の男・一(ひとり)の女と倶(とも)に自ら経(わな)きて死せぬ』と。是に由りて将軍ら、丹比坂(たぢひのさか)より帰る」。自殺を聞いて、途中で引きかえしたのである。しかし一隊はそのまま山田寺へ直行したらしい。「木臣(きのおみ)麻呂・蘇我臣日向・穂積臣噛(くい)、軍を以て寺を囲む。物部二田造鹽(ふつたのみやつこしお)を喚(め)して、大臣の頭を斬らしむ」とある。二六日のことであった。同日、難波宮の石川麻呂の宅では、残された妻子や随身の者たちが自殺した。三〇日には石川麻呂に加担した罪で一四人が斬首、九人が絞殺、一五人が流罪に処せられた。一族を含めると少なくとも四七名が処分され、当時としては最大規模の粛正であった。しかも『書紀』はこの月のこととして、「皇太子(中大兄)、始(いま)し大臣(石川麻呂)の心の猶し貞(ただ)しく浄きことを知りて、追いて悔い恥づることを生(な)して、哀び歎くこと休(や)み難し」と、石川麻呂が無実であったことを記している。

 この事件は中大兄による蘇我氏一派の粛正事件ともいえるが、石川麻呂の大和への道中に「茅渟道」がみえ、追討軍の経路に「黒山」「丹比坂」がみえる。これらと本地域との関係をみておきたい。