茅渟道について、飯田武郷の『日本書紀通釈』(巻五九)に「和泉国なり。さて道とは、今の大阪天王寺辺より、阿倍野を南に行き、茅渟より河内路を越えて、大和に入しものと見えたり」と記している。坂本太郎等校注『日本書紀』(下)には「茅渟道とは、難波方面より茅渟を経て大和に入る道か」と記し、茅渟については「元来は和泉国一帯の地域の名。茅渟県・茅渟海・茅渟宮などがある。奈良時代に茅渟宮があったのは大阪府泉佐野市上之郷の地」と述べており、これは『通釈』の説をうけたらしい。難波から茅渟を経て河内南部を通り、大和へおもむく道とするわけである。
これに対し、田中嗣人氏は「丹比道が西進すると現在の堺市内で小栗街道・紀州街道と合致する。これらのことから考えると、茅渟道というのは古代の『和泉地方の道』といった感じで用いていたとするならば、まさしく小栗街道・紀州街道をいったものではあるまいか。そう考えると、難波大道が金岡町に至って東西に分かれ、東進すれば丹比道へ、西進すれば小栗街道に入り、さらには鶴原以南の紀州街道に入るルートを茅渟道と称したのではないかと考えられるのである。そう考える時、大化五年の記事の茅渟道があたかも丹比道を連想させるような箇所に用いられたのも納得がいくように思われるのである」と述べた(「古代の岸和田」『元興寺文化財研究所紀要』)。
さらに最近、直木孝次郎氏は「茅渟道について」(美原町教育委員会編『美原の歴史』三)という論考において、この古道に関し、(イ)大和から茅渟地方(和泉国)へ通じた道で、竹内街道の南側を東西に走り、丹比郡黒山郷(南河内郡美原町黒山)をよぎったこと、(ロ)東方の大和へ行く道としては「平尾から喜志へ出、石川を渡って東行し、聖徳太子の墓や推古天皇陵のある科長(しなが)の盆地(太子町)で竹内街道の延長と合して、竹内峠を越えるルートが考えられる」ことや、横大路に通じること、(ハ)西方については「黒山より西に進み、和泉国に入るあたり、おそらく今の堺市関茶屋付近から西南に転じ、和泉市付近に至った」こと、(ニ)茅渟道の屈曲点として関茶屋を考えるのは、「難波京からまっすぐ南下してくる道と、黒山から西進する道とを想定すると、ちょうどこのあたりで交わるからである」ことなどを述べた(499)。
田中氏の考察は茅渟道が和泉地域に入ってから以遠のコースに重点をかけており、直木氏の論考は茅渟道が河内南部を通る区間について力を注いだものといえよう。それで、ここでは直木氏の論考にしたがって茅渟道を考えるとすると、蘇我倉山田石川麻呂が難波から大和へのがれるのに、大津道(長尾街道)や丹比道(竹内街道)を東進しないで茅渟道を選んだわけを、つぎのようにいうことができよう。
彼は蘇我氏の一族であり、茅渟道に沿う磯長谷古墳群には、蘇我氏と関係の深い天皇たちが葬られている(堀田啓一「磯長谷古墳群の形成をめぐる二・三の問題」『ヒストリア』五七)、という事実がある。このことは蘇我氏がこの地域となんらかのつながりを有していたことを思わせ、彼にとって喜志―大道のコースをたどる方が、他のコースを行くよりも安全性が高かったと考えられる。また石川麻呂の本拠地は、飛鳥の山田寺であったが、山田寺は茅渟道を東進すれば達することができる。
茅渟道は大津道や丹比道よりもより南方を東西に通じており、難波京からその道へ達するまではかなり南下しなければならないが、茅渟道に入りさえすれば、あとは、喜志―叡福寺―大道―竹内街道―横大路というように、ほぼまっすぐの方向に東進すれば、山田寺に達することができたと考えられる。