石川麻呂を葬った石棺と伝えられるものが、南河内郡太子町山田の仏陀寺境内にある。秋里籬島の『河内名所図会』に「山田麿墓 山田村仏陀寺の境内にあり」と記している。仏陀寺は孝徳天皇陵の西南約七〇〇メートル、推古天皇陵の東北三〇〇メートルのところで、山田の中央を東西につらぬく丘陵上にある。
石棺は凝灰岩をくりぬいて作られた横口式石棺で、土中に埋もれており、天井部だけ露出し、長さ二・五メートル、幅一・二メートルあって、石棺前面の入口は一枚の扉石で閉じられている。大正年間(一九一二~二六)に整地したとき、石棺の周囲から塼(せん)が出土し、これは山田の田中氏宅に一枚と、富田林高校に一枚(小片)が残っている。塼をともなっていたことから、この石棺の埋葬状態に関して、石室に入れられていたのでなく、これらの塼を用いて作られた塼室に入れられていたとか、あるいはこれらの塼をまわりにしいて石棺が土中に埋められていたとかいわれる(上野勝巳『太子町の古墳墓―磯長谷古墳群―』)。
しかし、この石棺が石川麻呂の墓であるとする確証はない。たとえば門脇禎二氏は、「これを蘇我倉山田石川麻呂の墓とする根拠は全くない。『河内名所図会』にすでに出ているが、おそらく集落の山田という地名とか、蘇我石川麻呂が和泉の茅渟から大和へ逃げ帰った道に近いことから、いわれはじめたものではないだろうか。むしろこの墓の意味は、天井部を露出している石棺にある」と述べ、この地方に分布する横口式石棺の考察を展開している(『飛鳥・河内と大和』)。しかし伝承であるとはいえ、こういう伝承が穴虫峠や平石峠・水越峠をよぎるコースにみられないで、喜志―叡福寺―大道のコースの沿辺に残るのは、あるいは石川麻呂が通った茅渟道が、黒山以東で喜志―叡福寺―大道のコースを通ったことを反映しているのではないだろうか。